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音楽史年表記事編81.ウィーンのベートーヴェン

 ウィーンはローマ帝国の北の要衝としての起源を持ち、ローマ帝国は北のゲルマン人、東のフン族やマジャール人と長く対峙してきています。このため、旧市街は周囲に堀を持つ堅固な城砦に囲まれていました。15世紀半ばにはウィーンは神聖ローマ帝国の中心都市となっており、1529年にはオスマントルコに包囲され、これ以降ますます城壁の強化が行われたようです。城壁の周囲には幅が500mほどの草地の緩衝地帯が設けられています。城壁に囲まれた旧市街は1km×1.5km程度と狭いため、都市の巨大化に伴い市街地は周辺部に広がり、ウィーンは二重の城壁に囲まれるようになりました。なお、今日のウィーンのコーヒー文化はオスマントルコのウィーン包囲が起源とされています。
 ウィーンは多くの音楽家が活躍してきていますので、街のいたるところに彼らのゆかりの場所が点在しています。今回は、ベートーヴェンを中心にそれらの場所を見て行きましょう。
 ベートーヴェンは、ロンドンからの帰途にボンに立ち寄ったハイドンから弟子入りが許可され、1792年11月にウィーンに音楽留学しました。ベートーヴェンのウィーンでの最初の住居はベートーヴェンの葬儀が行われた三位一体教会のあるアルザーシュトラッセのリヒノフスキー侯爵邸とされています。ここでは毎週夜会が開催されベートーヴェンのピアノ演奏は一躍ウィーンで評判となりました。また、ズメスカルなどの親友や多くの貴族とも知り合いになったようです。ベートーヴェンは引越し魔で、約30ヵ所ほどの住居に引っ越しを繰り返したようです。その中で現在でも保存されている住居は、メルケルバスタイのパスクアラティ男爵所有の建物の4階で、ウィーンのベートーヴェン記念館となっています。バスタイとは城壁の周囲に築かれた砲台で、ベートーヴェンは高い砲台の基部に建つ4階建ての建物の最上階に住んでいました。当時は周囲には草地が広がり見晴らしの良い場所であったようです。ベートーヴェンは毎朝、ウィーン旧市街の城壁の周囲を1周するなどの散策を日課としていました。
 ウィーンの演奏会場ですが、旧市街にはブルク劇場とケルントナートーア劇場の2つの宮廷劇場があり、これらの劇場ではオペラが上演され、また管弦楽等の演奏会も行われています。ウィーンの王宮に隣接するブルク劇場ではベートーヴェンの交響曲第1番、第4番が初演され、ケルントナートーア劇場では交響曲第9番が初演されています。また、シュトゥーベン門近くの旧ウィーン大学講堂では交響曲第7番が初演されています。なお、交響曲第8番は王宮に隣接する舞踏会場である大レドゥーテンザールで初演されています。
 ウィーンの旧市街には8つの城門があり、そのうちのひとつのケルントナー門を出ると、ウィーン川の対岸にフライハウスと呼ばれる大きな建物があり、その建物の中にヴィーデン劇場がありました。ヴィーデン劇場ではモーツァルトの歌劇「魔笛」が初演され、モーツァルトが亡くなった後、「魔笛」はウィーンで大ヒットし、連日のように上演が繰り返されていたようです。興行主のシカネーダーは魔笛の上演で大儲けし、豪邸に住んだとされます。ハイリゲンシュタットの北のヌスドルフにはシカネーダーの豪邸が残されており、後にレハールが住んだところからレハール・シカネーダーパレスとして現存しています。シカネーダーは資産を貯え、ヴィーデン劇場の近くに新たなアン・デア・ウィーン劇場を建設し、ベートーヴェンと契約しベートーヴェンに劇場内の住居を提供しています。ベートーヴェンはこの新しいアン・デア・ウィーン劇場で交響曲第2番、交響曲第3番「英雄」、交響曲第6番「田園」、交響曲第5番を初演しました。なお、英雄交響曲は旧市街のロプコヴィッツ侯爵邸で試演が行われています。
 また、ケルントナートーア劇場の近くには、ベートーヴェンが月光ソナタを作曲した月光の家や一時期、間借りしたエルデーディ夫人邸、またハンガリーのブルンスヴィク姉妹がウィーンを訪問した折に観光で訪れ、妹のヨゼフィーネが見初められ結婚したダイム伯爵が経営していたミューラー美術館がありました。ミューラー美術館では蝋人形で作られたラウドン元帥の霊廟が人気を集めていましたが、そこで鳴らされていた荘厳なオルガン曲はモーツァルトの作曲によるものでした。
 ウィーン旧市街の8つの城門のひとつのシュトゥーベン門は、モーツァルトが亡くなった時に家族や知人に見送られた最後の場所になります。さらに、門を出た先のラントシュトラッセのエルトベルクにはベートーヴェンの不滅の恋人となったアントーニア・ブレンターノの実家であるビルゲンシュトック邸跡があります。ここを訪れたベッティーナ・ブレンターノはビルゲンシュトック邸でベートーヴェンの月光ソナタを聴き、魂を奪われるほど感動し、このような曲を作曲した音楽家に是非会いたいと思い、メルケルバスタイのベートーヴェンの家を探し当てました。ゲーテと親交を持っていたベッティーナはベートーヴェンをゲーテに紹介し、ベートーヴェンはビルゲンシュトック邸を訪問するようになり、やがてベッティーナの義理の姉にあたるアントーニアはベートーヴェンを深く尊敬し、敬愛するようになり、ベートーヴェンにとっては喜びと苦悩の始まりともなり、そして人生最大の苦悩を乗り越えたベートーヴェンは後期様式のあらたな創作を行うようになります。

【音楽史年表より】
1791年3/3作曲、モーツァルト(35)、自動オルガンのためのアレグロとアンダンテヘ短調K.608
3月から8月にかけてウィーンのラウドン元帥廟でミューラーの自動オルガンで鳴らされた葬送音楽であろうと推定される。1799年にクラヴィーアのための4手用幻想曲として出版される。(1)
1804年5月末~6月初め頃、ベートーヴェン(33)、交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55
ウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸(現演劇博物館)で私的に初演される。(2)
1810年5/8、ベートーヴェン(39)
ベッティーナ・ブレンターノが異母兄フランツの妻アントーニアのウィーンの実家である故ビルゲンシュトック邸を訪れる。アントーニアの父親のビルゲンシュトック伯爵は学者、政治家であり美術品のコレクターとしても有名であった。ビルゲンシュトック伯爵は前年の10月に病没しているが、1802年にベートーヴェンがピアノ・ソナタ第15番「田園」を献呈したゾンネンフェルスの義弟にあたる人でもあった。ベッティーナはこの家の音楽会で今まで聞いたこともないピアノ曲に魂をうばわれてしまう。その曲はベートーヴェンの月光ソナタであったという。こんな曲をつくる人物はいったいどんな作曲家なのか、彼女は人が止めるのも聞かず、そのベートーヴェンなる人物にどうしても会おうと決心する。(3)(4)
5/25頃、ベートーヴェン(39)
ベッティーナ・ブレンターノがベートーヴェンを訪問する。ベッティーナがベートーヴェンを訪ね当てたのは、メルケルバスタイの上に建つパスクアラティ・ハウスの4階だった。ベートーヴェンはベッティーナの期待を裏切らなかった。彼の内面から放射される天才の精気が彼女に全世界を忘れさせたのだった。ベートーヴェンもまた突然現れた情熱的な黒い瞳の娘を前にして不思議な感銘を受けたに違いない。その頃、彼はしきりにゲーテの詩を作曲し、ちょうどその時はエグモント序曲を手がけていたのだが、そこにいるのはゲーテの作中人物ミニヨンそっくりの少女だった。会ったその日にベートーヴェンはベッティーナを彼女の宿泊先であるビルゲンシュトック邸に送って行く。その日はそこで昼食会が開かれていて、集まった人々はベッティーナがあの変人のベートーヴェンに腕をとられて現れたのに目をみはった。誰よりも驚いたのはベッティーナの兄の妻アントーニアだったかもしれない。上機嫌のベートーヴェンはその日は夜の10時までそこにいた。意気投合した二人は以後毎日のように会った。夜になるとベッティーナは昼間聞いたベートーヴェンの話を文章にして、次回にそれを本人に見せて訂正してもらった。そしてその内容を手紙でゲーテに知らせたのだった。のちにベッティーナの「ゲーテとある子どもとの往復書簡」に収録されたその手紙は、音楽に対するベートーヴェンの基本理念や、シンフォニーを作曲するときの創造過程を知ることのできる貴重な資料となっている。(3)(4)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)
3.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)
4.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)

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