音楽史・記事編110.ウィーン・ケルントナートーア劇場、作曲家の報酬改革
本編ではウィーンのケルントナートーア劇場で1822年に行われたロッシーニ・フェスティバルを中心に、ロッシーニとベートーヴェンが作曲家のフリーランス問題に関わった経緯を中心に見て行きます。
1821年ウィーンのケルントナートーア劇場は経営不振から脱却する為か、イタリアの劇場経営で成功していた興行師バルバヤを劇場支配人として招聘します。そして、翌年の1822年4月には「ロッシーニ・フェスティバル」と称してロッシーニのオペラ作品をシリーズで上演し、大変な人気を得ることとなり、この時ソプラノ歌手のコルブランと結婚したばかりのロッシーニ自身もウィーンを訪問しています。ロッシーニはオペラの作曲をハイドン、モーツァルトに学び、特にモーツァルトの「フィガロの結婚」の総譜から多くを学びモーツァルトをイタリアオペラの最高の作曲家と述べています。また、ベートーヴェンを音楽の巨匠として尊敬しており、ウィーンに到着したロッシーニはベートーヴェンを表敬訪問します。そして、ベートーヴェンは訪問したロッシーニを食事に誘っていますので、2人の会話を想定してみましょう。
(ロッシーニ)尊敬するベートーヴェン先生にお会いできてうれしいです。
(ベートーヴェン)事前にお届けいただいたロッシーニさんのオペラの総譜は全部読みましたよ。良く書けています。特にブッファは素晴らしい出来です。ところで、興行主のバルバヤがケルントナートーア劇場でルーレットとかいう賭博をはじめたそうだが、何を考えているのか。
(ロッシーニ)日頃、バルバヤには興行採算のために早くオペラを書けとせかされています。「セビリアの理髪師」は3週間で書き上げました。ルーレットも興行採算のためなのでしょう。バルバヤはイタリアの劇場でルーレット賭博を行い大儲けしています。
(ベートーヴェン)私も、興行主のブラウン男爵と大喧嘩をした。ブラウンが「お前さんのオペラは大衆を感激させない、お高く留まった教養のあるものにしか分からない」と言ったので、「俺は教養のあるもののために書くのだ」と言ってやり、総譜を取り返し興行を打ち切りにしてやった。興行主は芸術作品を書く作曲家を馬鹿にして、自分達だけ儲けている。作曲家も興行料の一部を受け取れるようにすべきだ。
(ロッシーニ)ベートーヴェン先生のおっしゃる通りです。早速バルバヤと交渉します。
ロッシーニは日頃興行主に振り回されていた中で、ベートーヴェンとの会食でフリーランスの作曲家としての示唆を得たのではないかと思われます。音楽史ではロッシーニは歌劇「ゼルミーラ」で、興行主のバルバヤと楽曲の所有権について激しく争ったとされています。「ゼルミーラ」が初演されたのはロッシーニがウィーンに来る前なので、恐らくバルバヤと所有権について争ったのはベートーヴェンと出会った後のことと考えられます。
モーツァルト、ベートーヴェンがフリーランスの作曲家として経済的には苦しい道を歩いてきていますが、ロッシーニの所有権改革によって作曲家は作曲した作品の楽譜を劇場へ有料で貸し出す制度ができることとなり、これは間接的には作曲家が興行料の一部を得ることとなり、オペラ等の公演が繰り返されることによって、作曲家にも興行料が還元されることとなります。これまでの作曲家は宮廷に雇われ報酬を得ていたわけですが、宮廷からの安定した報酬のないフリーランスの作曲家でも優れた作品を作曲すれば公演が繰り返されるごとに収入を得ることとなり、後のヴェルディやプッチーニは経済的には恵まれた環境で音楽活動を行っています。ロッシーニ以降のロマン派では多くの作曲家が現れていますが、これはロッシーニの作品の所有権獲得による作曲家の報酬改善によるものと思われます。
一方でフランス革命以降の改革の中で、劇場経営は宮廷や貴族との関りが希薄となり、劇場の維持も困難になってきており、バルバヤのように劇場経営のためにルーレット賭博を行い劇場の収益をあげることが行われるようになったようです(1)。ロッシーニはパリのイタリア座に音楽監督として招かれ、オペラ「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」によってフランス・グランドオペラの創始者となります。この頃のフランスは革命後に海外植民地貿易等で財を成した中産階級がオペラ座に社交のために集まるようになり、オペラ座は娯楽を求めた社交場となり、オペラも娯楽性が求められるようになります。ロッシーニは「ギョーム・テル」以降、新作オペラを作曲しなくなりますが、モーツァルトやベートーヴェンを手本として芸術音楽を追求してきたロッシーニにとってはマイヤーベーアのような娯楽オペラを作曲することには耐えがたく、室内楽の作曲に専念して行きました。晩年のロッシーニには年金に加え、旧作オペラの興行による収入があり、作曲家の報酬改革を成し遂げ作曲しなくても悠々自適に暮らせるようにしたという自負があったのかもしれません。
【音楽史年表より】
1781年3/16、モーツァルト(25)
モーツァルト、ミュンヘンからウィーンに到着する。モーツァルトはザルツブルク大司教の父ルードルフ・ヨーゼフ・コロレード侯爵邸であるドイツ騎士団の館(ドイチェスハウス)に宿泊する。(2)
4/3、モーツァルト(25)
ウィーンのケルントナートーア劇場でモーツァルトの交響曲第34番ハ長調K.338が演奏される。2管編成(ただし、Fgは6本)、Vn40、Vla10、Vc8、Cb10の大編成で演奏される。コロレド大司教がモーツァルトに許した唯一の公開演奏会となる。(2)
1784年4/29初演、モーツァルト(28)、バイオリン・ソナタ第40番変ロ長調「ストリナザッキ・ソナタ」K.454
ウィーンのケルントナートーア劇場で行われた女流バイオリン奏者のレジーナ・ストリナザッキの演奏会で初演される。この演奏会には皇帝ヨーゼフ2世が臨席する。モーツァルトは自分のクラヴィーアを簡単な草稿を用いて記憶で演奏したが、こうしたことはモーツァルトには珍しいことではなかった。更に、二人は試演なしに初見で演奏したと伝えられる。(2)
1787年2/23初演、モーツァルト(31)、ソプラノとクラヴィーア、管弦楽のためのレチタティーヴォとアリア「どうしてあなたが忘れられるだろうか-心配しなくてとも良いのです、愛する人よ」K.505
ケルントナートーア劇場で行われたイギリスへ帰国するナンシー・ストレースのための演奏会で初演される。モーツァルトはオブリガートのクラヴィーアのパートを演奏する。(2)
1787年3/21初演、モーツァルト(31)、バスのためのレチタティーヴォとアリア「アルカンドロよ、わしはそれを告白する-わしは知らぬ、この優しい愛情がどこからやってくるのか」K.512
メタスタージョの「オリンピアーデ」の台本による。バス歌手のフィッシャーのために作曲される。「後宮からの誘拐」でオスミン役を演じたフィッシャーは、晩年はベルリンの宮廷歌手として生涯を送る。なお、モーツァルトは同じ歌詞によるアリアを1778年マンハイムにおいてアロイジア・ウェーバーのために作曲している。(2)
1806年3/29初演、ベートーヴェン(35)、歌劇「フィデリオ(レオノーレ)」第2稿Op.72
歌劇「フィデリオ」第2稿がアン・デア・ウィーン劇場で初演される。再演は3/31と4/10の2回の公演で打切られてしまう。事件は表面的には「歩合で支払われる報酬」の高にあった。満場の大喝采から見て支払が少ないとベートーヴェンが言ったのに対し、劇場の権力を握っていたブラウン男爵は「お前さんの歌劇はモーツァルトには遠く及ばぬよ。モーツァルトはいつも大衆を感激させ、劇場を満員にさせていたのに対し、お前さんのはお高く留まった連中、教養ある連中にだけしかわからぬ。それでは劇場はたまらぬ。」と本音を吐いてベートーヴェンを挑発する。かっとなったベートーヴェンは「俺は大衆のために書くのではない-教養ある者のために書くのだ。」と有名な言葉を吐き捨てて、「総譜を返せ」とどなる・・・しかし、ブロイニングが書いている通り、陰謀は前々から進められており、本質は宮廷音楽と新しい階級に根ざす音楽の対立であって、「今度は劇場内の彼の敵が立ちあがった」ので、ベートーヴェンがかっとなって早まったから上演が不能になったのではなかった。(3)
1814年5/23初演、ベートーヴェン(43)、歌劇「フィデリオ」最終稿Op.72
ウィーンのケルントナートーア劇場で初演され、大成功を収める。ただし、新しい序曲(フィデリオ序曲)は間に合わず、「アテネの廃墟」序曲で代用される。新しい序曲は26日の上演で初演された。歌劇「フィデリオ」は同じシーズン中5回再演された。ウィーンの各劇場主たちはベートーヴェンが1812年の「シュテファン王」や「アテネの廃墟」の初演で人気を博し、1813年には「ウェリントンの勝利」が圧倒的な人気を博すのを見て、今ならば「フィデリオ」で好評を得ることができると考えるようになった。そうしたときにケルントナートーア劇場のトライチュケから強い再演要望があり、ベートーヴェンは大幅な台本の改訂と音楽の改訂を条件とし、その台本改訂をトライチュケが行うことで引き受ける。ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」は第3稿にして、大成功を収めることになった。(4)
「フィデリオ」最終稿は、ナポレオン失脚後のヨーロッパの体制を話し合うため各国首脳によるウィーン会議での看板演目となった。
5/26初演、ベートーヴェン(43)、歌劇「フィデリオ」序曲
ウィーンのケルントナートーア劇場で「フィデリオ」再演時に、新作の序曲が初演される。(4)
1822年2/16初演、ロッシーニ(29)、歌劇「ゼルミーラ」
ナポリのサン・カルロ座で初演される。原作はベロワの「ゼルミール」、トットーラの台本による2幕のドランマまたはオペラ・セリア。ロッシーニはこのオペラの著作権をめぐって、興行師バルバヤと争った。ロッシーニは自分の作品の所有権を強硬に主張した最初の作曲家であった。ロッシーニによってオペラはそれを作った作曲家のものであり、自分のものであるからには隅から隅まで徹底的に磨きをかけ、管理しようとする意識が生まれてきた。(5)
4月頃、ベートーヴェン(51)、ロッシーニ(30)
ウィーンを訪れたロッシーニがベートーヴェンを訪問する。当時のロッシーニはイタリアではもちろん、海外においても名声を獲得し、作曲家としての地位はまったく定まっていた。1822年ウィーンの劇場はその不振を一挙に挽回するために、ロッシーニを招聘した。(4)
4/13、ロッシーニ(30)
ウィーンで、前年よりケルントナートーア劇場の経営管理者兼支配人に招聘されていたミラノ生まれのドメニコ・バルバヤによって、バルバヤがこれまで率いていたナポリの宮廷歌劇場を母体とするカンパニーの引越し公演として、ロッシーニ・フェスティバルが開幕する。このフェスティバルのためにマドリッド生まれの名ソプラノ歌手イザベラ・コルブランと彼女とひと月前に結婚したばかりの7歳年下の夫であるジョアキーノ・ロッシーニがウィーンに来訪する。フェスティバルではロッシーニの新作歌劇「ゼルミーラ」、旧作の歌劇「イギリス女王エリザベッタ」、歌劇「シンデレラ(チェネントラ、善意の勝利)」、歌劇「リッチャルドとゾライーデ」、歌劇「シャブラン家のマティルデ、美貌と強い心」などが上演され、ウィーンの聴衆を虜にした。(6)
1824年5/7初演、ベートーヴェン(53)、交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125
ウィーンのケルントナートーア劇場で初演される。総指揮者ベートーヴェン、実質指揮者は宮廷楽長ウムラウフ、コンサートマスターはシュパンツィヒ、独唱はSop:H・ゾンターク、Alt:K・ウンガー、Ten:A・ハイツィンガー、Bar:J・ザイペルト、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世に献呈される。当日プログラムは祝典劇「献堂式」序曲Op.124、ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)ニ長調Op.123より「キリエ」「クレド」「アニュス・デイ」、続いて交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125が初演される。(4)
【参考文献】
1.岡田暁生著、オペラの運命(中央公論新社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.小松雄一郎著、ベートーヴェンの手紙(岩波書店)
4.ベートーヴェン事典(東京書籍)
5.スタンダール・山辺雅彦訳・ロッシーニ伝(みすず書房)
6.平野昭著、作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
SEAラボラトリ
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