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音楽史・記事編113.ベートーヴェンの創作史

 今回からは作曲家別の年度別分類別作品数を集計し、作曲家の生涯及び創作活動を振り返って行きます。初回はベートーヴェンの創作史について見て行きます。ベートーヴェンの作品には作品番号の付いている作品の他にWoO、Hessに分類される作品があり、これらにはカノンなどの小品や手紙に書きつけた数小節程度の作品とは言えないようなものも含まれ、これらの作品は分類番号7の「ピアノ伴奏歌曲」に無伴奏歌曲として含まれます。本編の楽曲の分類方法は音楽史年表データベースの分類に従っており、分類別作品数はデータベースに掲載された作品によります。

〇生涯を通して歌曲を作曲
 ベートーヴェンの創作史を見て行きますと、ピアノソナタや変奏曲の創作が初期から後期にわたって続けられ、それとともにピアノ伴奏歌曲が生涯を通じて作曲されていることが分かります。ピアノ伴奏歌曲には小品が含まれるもののベートーヴェンの時々の心情を表現しているように思われます。また、1810年以降の「15.その他」に多くの作品がありますが、これらはイギリスのジョージ・トムソンの依頼によるスコットランドやアイルランド民謡の編曲で、ベートーヴェンは民謡の伴奏の他、前奏、後奏についてピアノ、バイオリン、チェロの構成で曲を付けています。ベートーヴェンはこれらの哀愁を帯びた民謡から曲想を得て交響曲第7番イ長調第2楽章などの作曲を行っています。
〇女性のために書かれたピアノソナタと交響曲
 ベートーヴェンのピアノソナタや交響曲の多くは女性との関わりから創作されています。ピアノソナタでは月光ソナタがジュリエッタ・グイッチャルディに捧げられ、ヨゼフィーネのために作曲された熱情ソナタはヨゼフィーネの兄のフランツ・ブルンスヴィクに献呈されています。ピアノソナタ第24番はヨゼフィーネの姉のテレーゼのために書かれ、ピアノソナタ第28番は生涯にわたりベートーヴェンのピアノソナタの演奏に取り組んだドロテーア・フォン・エルトマン男爵夫人に捧げられました。また、後期のピアノソナタ第30番はアントーニア・ブレンターノの長女マクシミリアーネに捧げられ、第31番と第32番はアントーニアとの思い出として作曲されたものと見られます。また、交響曲では第2番ニ長調がジュリエッタのために、交響曲第6番ヘ長調「田園」がヨゼフィーネのために、交響曲第8番ヘ長調がアントーニアのために書かれたものと見られます。
〇ウィーンで作品を次々と出版する
 1792年ベートーヴェンはハイドンの推薦でウィーンに音楽留学します。このときフランス軍はライン方面に侵攻しており、おそらくベートーヴェンはボンには戻れないことを予感していたのかもしれません。ウィーンではリヒノフスキー侯爵邸に寄宿し、夜会などを通じて一躍ピアノ演奏の寵児としてもてはやされるようになります。ウィーンではハイドンに師事することとなっていましたが、ハイドンは第2回目のロンドン行きの準備に忙しく、ほとんど教えを乞うことはかなわず、ベートーヴェンはシェンクやアルブレヒツベルガーにこっそりと師事しています。そして3曲のピアノ三重奏曲をOp.1として出版します。ハイドンはピアノ三重奏曲第3番ハ短調については聴衆に受け入れられないだろうと出版を見合わせるようにと忠告しています。悪魔の手を持っていると言われるほどのピアノの達人ぶりを発揮したベートーヴェンは、ハイドンが驚くような画期的な3曲のピアノソナタOp.2を作曲し、出版においてはハイドンに献呈しています。ハイドンがどのようにこの献呈を受け入れたかについては伝えられていませんが、おそらく第1番ヘ短調の終楽章では驚きのあまり目を丸くしたのかもしれません。ヘ短調という調性をベートーヴェンは選帝侯ソナタでも使っていますが、ピアノソナタで一般的には使われない調性であり、すべての調性で作曲されたバッハの平均律クラヴィーア曲集を学んだベートーヴェンならではの調性選択です。なお、モーツァルトはオルガン曲のK.594やK.608でヘ短調の調性を使っています。
 1799年にはベートーヴェンとハイドンにロプコヴィッツ侯爵からそれぞれ6曲の弦楽四重奏曲の作曲依頼が来ます。ベートーヴェンはモーツァルトの弦楽四重奏曲から多くを学び、画期的な弦楽四重奏曲を作曲します。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を知ったハイドンは2曲で筆を折り、2度と弦楽四重奏曲に関わることはありませんでした。このように弦楽四重奏曲の父であり、ピアノ三重奏曲でもその様式を確立したハイドンはベートーヴェンに道を譲ったのでした。
〇「精神の偉大さと心の善良さ」を生涯のモットーとする
 1879年、ベートーヴェンが18歳の時にフランス革命が勃発します。この時、ボン大学ではシュナイダー教授が革命賛美の論陣を張り学生たちに支持され、ベートーヴェンも聴講生として加わり大きな影響を受けています。「人間の価値は、生まれのよさ以上のものである。真の高貴性は、精神の偉大さと心の善良さによってのみ達成される」というシュナイダーの言葉はベートーヴェンの生涯のモットーとなります。「精神の偉大さ」と「心の善良さ」は王侯と民衆、貴族と平民の身分差を超える人間の価値であるとの教えであり、フランス革命によって王政が倒れ、共和制の理念が実現できることに共感しています。ナポレオンが皇帝の地位に就いたことは共和制の理念を踏みにじるものと感じられたのでしょう。ベートーヴェンは啓蒙主義の身分制度を超えた自由・平等・博愛を生涯実践し続けたように思えます。
〇ベートーヴェンへの誤解
 日本の著名な詩人の作に「ベートーヴェン」という詩があり、この詩では「金はなく女にふられたかっこわるいベートーヴェン、かっこ良すぎるカラヤン」と述べられています。長年ベートーヴェンの音楽を聴いてきた筆者には、この詩のようにかっこわるいベートーヴェンがイメージできず、この詩との出会いからベートーヴェンの探求をより深めたように思います。
 ベートーヴェンは、モーツァルトが音楽史に残る名曲を作曲しながら経済的には困窮したというから、ロッシーニとともにフリーランスの作曲家の報酬改革を成し遂げ、ロマン派の多くの作曲家輩出に貢献していることを考えれば、「金はなくかっこわるいベートーヴェン」というイメージは誤解と考えられます。また、ベートーヴェンの恋愛はいずれも成就しなかったわけですが、このことにより人生の苦悩のどん底にたたき落され、そして苦悩を乗り越え歓喜にいたる困難な道を歩み、荘厳ミサ曲、第9交響曲、後期の幽玄な弦楽四重奏曲を生み出しています。ベートーヴェンは音楽史における数々の傑作を生み出しただけではなく大胆な改革のきっかけを作り、人間としても楽聖と呼ばれるにふさわしい人生を歩み、多くの女性からも敬愛され、まさにベートーヴェンはかっこいい人生を歩んだと言っていいでしょう。
〇聴覚障害の作曲様式への影響
 ベートーヴェンは1802年頃に聴覚の異常に気付き、やがて人とのコミュニケーションにも影響が出るようになります。ハイドンやモーツァルトは優れた演奏家、優れた楽器、そして響きの良い優れたホールを前提に作曲を行っています。特に響きの優れたホールの存在なしには音楽の魅力は半減するほどです。しかし、聴力を失ったベートーヴェンは響きの優れたホールでの自作品の音響を聞くことはかなわず、響きは自身の頭の中にありました。
 このようなことからベートーヴェンは総譜の中に豊かな響きを盛り込もうとしたように思われます。従って響きの悪いホールでもベートーヴェンは受け入れられるものの、ハイドンやモーツァルトの演奏が魅力的にならない理由がここにあるように思われます。石造りの教会のような響きの豊かなホールではおそらくハイドンやモーツァルトの音楽は輝きを放つものと思われます。ベートーヴェンの総譜の中に響きを盛り込んだ作曲様式はロマン派の作曲家に受け継がれて行きました。

【音楽史年表より】
1770年12/16、ベートーヴェン(0)
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン、ボンに生まれる。父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンは宮廷楽長ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの長男で宮廷テノール歌手、母マリア・マグダレーナはエーレンブライトシュタイン宮廷料理長ハインリヒ・ケーヴェリヒの娘、生誕地はボンガッセ386番地(現ボンガッセ20)。(1)
1778年3/26、ベートーヴェン(7)
ベートーヴェン、ケルンのシュテルンガッセ音楽堂での父ヨーハンの主催する公開演奏会に出演し、クラヴィーア協奏曲と三重奏曲を数曲演奏する。ベートーヴェンの父ヨーハンはモーツァルトの例にならって息子を神童に仕立てて売り出そうと計画する。しかし、この演奏会は失敗に終わる。父ヨーハンは息子の音楽教育を自分でやるのを諦め、宮廷の同僚や近隣の音楽家仲間たちの手にゆだねることとする。(1)(2)
1780年、ベートーヴェン(9)
ベートーヴェン、フランシスコ会教会オルガン奏者ヴィリバルト・コッホからオルガンを学び、同協会とミノリート会教会でオルガン助手を務める。(1)
1781年2/15、ベートーヴェン(10)
クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェがボン宮廷オルガン奏者に就任する。この頃からベートーヴェンはネーフェに師事して、クラヴィーア、オルガンなどを学ぶ。ネーフェはベートーヴェンに最初に大バッハの平均律クラヴィーア曲集を教材として与える。(1)
1782年作曲、ベートーヴェン(11)、ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲WoO63
ボンの名士ヴォルフ=メッテルニッヒ伯爵の夫人フェリーチェに献呈される。(1)
1783年秋頃、ベートーヴェン(12)
ベートーヴェン、この頃フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーと知り合う。ヴェーゲラーは自分が親しく出入りしていたフォン・ブロイニング家にベートーヴェンを若い作曲家として紹介する。選帝侯邸参事官エマヌエル・ヨーゼフ・フォン・ブロイニング伯爵未亡人のヘレーネ夫人にはベートーヴェンとほぼ同年の長女エレオノーレを頭に男児3人がいた。彼女は新たにやってきた少年ベートーヴェンの音楽家の才能を見抜き、もう一人の息子のように扱った。(1)
1784年4/15、ベートーヴェン(13)
ボンの選帝侯マクシミリアン・フリードリヒ死去し、皇帝ヨーゼフ2世の弟でありマリア・テレジアの末子にあたる28歳の若いマクシミリアン・フランツがボンの新選帝侯になる。(1)
6月、ベートーヴェン(13)
ベートーヴェン、宮廷の第2オルガン奏者に任命される。(1)
1785年、ベートーヴェン(14)
ベートーヴェンはブロイニング家でエレオノーレと末子ローレンツにピアノを教え、次男のシュテファンとは祖父の代からの知人フランツ・リースに一緒にバイオリンを学んだ。(1)
1787年4/7~4/20の間、ベートーヴェン(16)
ベートーヴェン、ウィーンのモーツァルトの自宅を訪問しモーツァルトに面会する。(3)
7/17、ベートーヴェン(16)
ベートーヴェンの母マリア・マグダレーナが死去する。ボンのアルター・フリートホフ(旧市営墓地)の片隅にひっそりと眠る母の墓碑にはベートーヴェンの言葉が刻まれている・・「彼女は私にとって大変に素晴らしい愛すべき母であり、私の最良の友でもあった」(1)
1788年夏、ベートーヴェン(17)
ベートーヴェン、ボン宮廷管弦楽団およびボンに新設された国民歌劇場のビオラ奏者に採用される。(1)
1789年7/14、ベートーヴェン(18)
フランスのパリでフランス革命が勃発する。パリ市民がバスティーユを襲撃し、この要塞の陥落をきっかけに絶対王政に対する闘いがフランス全土に広がる。国境を接するフランスから革命の報が届くと、ボン大学ではオイロギウス・シュナイダーが革命賛美の論陣を張り、若い学生たちから熱烈に支持されていた。おそらくその渦中に18歳のベートーヴェンもいたにちがいない。翌年出版されたシュナイダーの詩集の予約購読者の中に「宮廷音楽家、L・ヴァン・ベートーヴェン」の名が記されているからだ。「人間の価値は、生まれのよさ以上のものである。真の高貴性は、精神の偉大さと心の善良さによってのみ達成される」というシュナイダーの言葉がベートーヴェン自身の人生のモットーとなった。(4)
1791年12/5、ベートーヴェン(20)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、その生涯を閉じる。(5)
1792年7月、ベートーヴェン(21)
ハイドンがロンドンからの帰途再びボンに滞在する。ベートーヴェンは1790年に作曲した「皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ」WoO87をハイドンに見せて弟子入りが許可された。(1)
11/2頃、ベートーヴェン(21)
ベートーヴェン、ウィーンに向けボンを出発する。(1)
・・・
1799年5月、ベートーヴェン(28)
ハンガリー貴族のブルンスヴィク家のテレーゼとヨゼフィーネが婿選びの準備のために母アンナに連れられウィーンに来る。母アンナは二人の音楽的才能を大事にしていたので、ニコラウス・ズメスカルを仲介にして、ベートーヴェンにピアノのレッスンを受けさせようとした。(6)
1801年6/29、ベートーヴェン(30)
ベートーヴェン、ボンの友人ヴェーゲラーに手紙で耳疾を告げる。ベートーヴェンは3年前の1798年から演奏や作曲にはほとんど障害にならなかったものの、人との対話が困難になっていた。・・・「この3年ほどで僕の聴覚はどんどん衰えている・・・この2年ほどはほとんど社交の場から遠ざかっている。」(1)
1802年10/6、10/10、ベートーヴェン(31)
ベートーヴェン、2人の弟に宛てた遺書「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。(1)
1805年3月以前作曲、ベートーヴェン(34)、歌曲「希望に寄せて」第1作Op.32
クリストフ・アウグスト・ティートゲの詩による。この歌曲は1804年に夫を亡くしていたダイム伯爵夫人ヨゼフィーネにささげられた。(1)
・・・

【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)
3.平野昭著、作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
4.青木やよひ著、ゲーテとベートーヴェン(平凡社)
5.モーツァルト事典(東京書籍)
6.小松雄一郎編訳、ベートーヴェンの手紙(岩波書店)

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