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音楽史・記事編106.ザルツブルク宮廷レジデンツ

 1762年6歳のモーツァルトはウィーンを訪問し、シェーンブルン宮殿で女帝マリア・テレジアの御前で演奏するなど大歓迎を受け、モーツァルトと姉のナンネルには宮中の礼服が下賜されました。ザルツブルクに戻ったモーツァルトとナンネルは1763年2月にザルツブルクの政治の中心であったレジデンツで、シュラッテンバッハ大司教の誕生日に行われた新しい楽長ジュゼッペ・ロッリの昇進祝賀会に登場しクラヴィーアの演奏を披露しています。このとき姉弟は女帝から下賜された宮中の礼服を着て演奏したものと思われます。

 ザルツブルクに戻った父レオポルトは姉弟の晴れ姿を絵画に残します。モーツァルトと姉のナンネルがウィーンの王宮を訪問し、女帝マリア・テレジアや皇帝フランツ・シュテファン、後の皇帝ヨーゼフ2世や他の大公、大公女たちにもてなされ、宮中の礼服を下賜され帰郷したことは、シュラッテンバッハ大司教にとっても大変名誉なことであり、この後モーツァルト一家はフランス大使からの招請に応じ、フランスへの親善旅行に出発します。
 モーツァルトの西方大旅行は約3年半に及び出発時に7歳であったモーツァルトは10歳になっています。この間、モーツアルトはフランスのパリではソナタを初めて出版し、ロンドンではクリスティアン・バッハやイタリア人のカストラート歌手マンツォーリなどの音楽家と交流し、管弦楽法や声楽など多様な音楽様式を学び、交響曲やアリアそしてモテットなどいずれも初めての作品を作曲し大きな成果をあげます。ザルツブルクに戻ったモーツァルトはオラトリオ「第一戒律の責務」第1部K.35を作曲し、ザルツブルク宮廷レジデンツ・騎士の間で初演し音楽家としての成長を示します。この作品のあまりにも見事なできばえに、ザルツブルク侯は10歳の子供の作品とは信じられなかったと伝えられています。
 1775年4月、女帝マリア・テレジアの末子のマクシミリアン・フランツ大公がザルツブルクを訪問し、モーツァルト作曲の音楽劇「牧人の王」の上演で歓迎を受けます。モーツァルトと同年のマクシミリアン公は1768年ウィーンの孤児院教会で行われたミサ曲ハ短調K.139(孤児院ミサ曲)の初演に立ち会い、この後兄の皇帝ヨーゼフ2世とともにモーツァルトの擁護者となり、ケルン大司教・選帝侯としてボンに赴任した折には、ボンを新たな音楽の都にするために、多くのモーツァルトの楽譜をボンにもたらしています。なお、マクシミリアン公はザルツブルクで歓迎を受けたあと、フランス宮廷を訪問し、フランス国王ルイ16世と大公の1歳年上の姉の王妃マリー・アントワネットに拝謁しています。

【音楽史年表より】
1763年1/5、モーツァルト(6)
モーツァルト一家、ウィーンからザルツブルクに戻る。(1)
2/28、モーツァルト(7)
前年6月にザルツブルク宮廷楽長エーベルリンが死去し、この日副楽長のジュゼッペ・ロッリが楽長に昇進し、モーツァルトの父レオポルトは副楽長に昇進する。この日はザルツブルク大司教ジークムント・フォン・シュラッテンバッハの誕生日にもあたり、夕刻には全廷臣が集められ、祝宴ではモーツァルト姉弟が演奏を披露した。ヴォルフガングとナンネルは女帝マリア・テレジアから賜った大礼服を着て演奏に臨んだものと思われる。(1)
1767年3/12初演、モーツァルト(11)、オラトリオ「第一戒律の責務」(第1部)K.35
ザルツブルク宮廷の騎士の間で初演される。1766年末から67年3月に作曲される。ザルツブルクはアルプス地方の音楽劇の発祥地で学校オペラやジングシュピールが盛んだった。「第一戒律の責務」は第1部を10歳のモーツァルトが作曲、第2部は楽長ヨハン・ミヒャエル・ハイドン、第3部は宮廷作曲家兼オルガン奏者のアードルガッサーが作曲したが、第2部と第3部は散逸している。(2)
3/12付けのザルツブルクの大学新聞は10歳の少年によって作曲されたオラトリオ「第1戒の責務」K.35について「優れた響きをもった音楽である」といっている。ヴァイザーによる台本は、たとえばヘンデル的な意味でのオラトリオではなく、劇的というよりもむしろ宗教的な寓話である。そのあらすじは「熱烈な信仰を失ったキリスト教徒の記憶と知性は、神の慈悲と正義に助けられながら、神への徳目の精神によって再生されることができる」というもの。モーツァルトは第1級の歌手たち、たとえば有名なソプラノ歌手でミヒャエル・ハイドンの夫人となったマリア・マグダレーナ・リップなどのために、初めて作曲できることで大いに発奮したにちがいない。モーツァルトは進んでいろいろな可能性に挑戦している。たとえば難しいコロラトゥーラや、極端な高音域を用いたりしている。また独奏楽器の演奏部分はオーケストラのヴィルトゥオーゾとしての資質がなければ、充分な演奏ができないほどのものである。(3)
ザルツブルクでは四旬節の聖週間(復活祭の前1週間)期間にこの種のオラトリオを上演する伝統があった。デインズ・バリントンの報告によれば、ザルツブルク侯がこれほど見事な曲(第1戒律の責務K.35)が本当に幼児のものだとは信用せず、彼を1週間のあいだ閉じ込め、この間誰にも会わせずに五線紙とオラトリオの歌詞だけを与えて一人にしておいたと伝え聞いたという。(1)
1775年4/23初演、モーツァルト(19)、音楽劇「牧人の王」K.208
音楽劇「牧人の王」K.208、ザルツブルク宮廷にて演奏会形式で初演される。2幕の音楽劇、台本はメタスタージョの3幕の原作を2幕に編作したもの、編作者は不明。1775年4月に女帝マリア・テレジアの末の息子マクシミリアン・フランツ大公がザルツブルクを訪問することになり、大司教はモーツァルトに歓迎の作品の作曲を依頼した。マクシミリアン・フランツ公はモーツァルトと同年生まれであり、のちにボン選帝侯となりベートーヴェンを庇護することとなる。マクシミリアン公は1788年ボンに宮廷楽団ならびに国民劇場を新設し、ビオラ奏者となったベートーヴェンは宮廷楽団の演奏機会によってモーツァルトの歌劇などにふれることになる。また、1762年10月に6歳のモーツァルトはウィーンのシェーンブルン宮殿で御前演奏を行い、女帝マリア・テレジアから宮中の礼服を下賜されたが、この礼服はマクシミリアン公のために仕立てられたものであった。さて、ザルツブルクへ大公のお供をしたローゼンベルク伯爵の手記によれば、この曲は「カンタータ」と記され、衣装も着けず、舞台装置もなく、演技を伴わない演奏会形式で行われたことが分かる。当時のザルツブルク宮廷では、本格的なオペラ・セーリアを上演することは不可能であり、大公を歓待するにはこれが精一杯であったであろう。(1)(2)
1780年8/29作曲、モーツァルト(24)、交響曲第34番ハ長調K.338
交響曲第34番ハ長調K.338、ザルツブルクで完成する。初演についてザスローは姉ナンネルの日記にある9月2日、3日、4日の宮廷演奏会で演奏されたと推測している。その後ウィーンでも演奏されたが、その時にはK.409のメヌエットが追加されたものと考えられている。(4)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.西川尚生著、作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
3.カルル・ド・ニ著、相良憲昭訳・モーツァルトの宗教音楽(白水社)
4.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)

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