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音楽史年表記事編63.ベートーヴェン、不滅の恋人への手紙とゲーテとの邂逅

 1812年にベートーヴェンはボヘミアの保養地テープリッツで不滅の恋人への手紙を書き、またゲーテと会っていますがこれらは全く関係のないことのように見えますが、これらはベートーヴェンの人生にとっての一連の運命的な出来事となり、ベートーヴェン後期の創作にもつながる大きな転機となりますので、見て行きましょう。
 1827年3/26ベートーヴェンは57歳で亡くなりますが、同郷の友人であるシュテファン・ブロイニングは秘書のカール・ホルツと自称無給秘書のシントラーとともに、遺言書に記載してあった日本円換算で時価約1億4千万円相当の銀行株券を探します。そして、翌日になって人目につきにくい引き出しの奥にそれを発見しますが、そこには銀行株券以外に、鉛筆で書かれた手紙と2つの手のひらサイズの象牙の女性の細密画がしまわれていました。手紙はベートーヴェン自身の手による鉛筆書きの恋文であり、象牙の細密画のひとつはジュリエッタ・グイチャルディと判明します。そして、もう一方の肖像画は恐らく恋文に書かれた不滅の恋人その人と見られました。不滅の恋人については謎につつまれ長く音楽学者によって調査研究が行われてきており、現在ではアントーニア・ブレンターノあるいはヨゼフィーネであろうとされています。(1)
 本編ではあらゆる状況を説明できることから、米国の音楽学者メイナード・ソロモンおよび女性学者でありベートーヴェン研究者の青木やよひ氏によるアントーニア説に基づいて見て行きます。
 1812年ベートーヴェンはイタリアへの旅行を計画していたようですが、突然ボヘミアへの療養に変更しています。これは恐らくアントーニアを取り戻そうとした夫のフランツに対抗し、アントーニアがボヘミアにベートーヴェンを呼び出し、決着を付けようとしたからではないかという可能性があります。ボヘミアのフランツェンスブルンはウィーンとフランクフルトの中間に位置し、アントーニアとしては以前にウィーンに呼び寄せた義兄の法律家サヴィニーを、フランクフルトから呼び寄せたいと考えたのかもしれません。
 ベートーヴェンは6/29にウィーンを出発し、プラハに到着し年金問題でキンスキー侯爵を訪問しますが、ここでベートーヴェンは後から夫フランツとともにウィーンを出発したアントーニアから予期せぬ一撃を受けます。それはベートーヴェンから共にイギリスへ移住したいとの話を聞いていたアントーニアが、夫の子を宿したというアントーニアからの話でした。動転したアントーニアはベートーヴェンへの手紙をテープリッツ宛てに発送し、夫のフランツをプラハに残したままベートーヴェンとともにカールスバートへの郵便馬車に乗り込み、途中のシュランまで同行します。ベートーヴェンはシュランでアントーニアと別れ、夜を徹してテープリッツへ向かい、アントーニアの心情を吐露したお詫びの手紙を読み、7/6にはカールスバートのアントーニアに宛てた不滅の恋人の手紙を送ったと見られます。ベートーヴェンは手紙でアントーニアを不滅の恋人と呼び、アントーニアを許す内容となっています。(1)
 一方のゲーテは例年夏期の間、保養地のカールスバートを訪れ、執筆活動を行っています。7/7幼いころからゲーテが可愛がっていたフランツ・ブレンターノはカールスバートに到着するとゲーテと会い食事をし、翌日にはアントーニアとともに再びゲーテに会っています。フランツはゲーテに妻のアントーニアをベートーヴェンから取り戻したいと言ったのでしょうか。そして、ゲーテにはテープリッツを訪れているオーストリア皇后マリア・ルドヴィカから自身の著作を朗読してほしいとの依頼があり、ゲーテは7/14頃にはテープリッツに到着します。ゲーテはベッティーナから話を聞いていたそのベートーヴェンがテープリッツに来ていることから、7/19にベートーヴェンを訪問します。ゲーテとベートーヴェンは意気投合し、ビリンへの小旅行やベートーヴェンのピアノ演奏などで交流し、妻のクリスティアーネにベートーヴェンを称賛する手紙を書いています。
 そして、7/24頃にベートーヴェンとゲーテはテープリッツのシュロッスガルテンでオーストリア皇帝一行とすれ違うことになるのですが、ゲーテは直ちに深々と一礼をしましたが、一方のベートーヴェンは軽く一礼をし、通り過ぎました。ゲーテはワイマール公の寵臣として皇后マリア・ルドヴィカの招聘に応じテープリッツを公式に訪問している立場であり、この臣下の礼は当然の行為でした。一方のベートーヴェンは非公式訪問であり、皇帝一行の中にいたルドルフ大公から「やぁ、ベートーヴェン」と声をかけられ、これに対し一礼で応じたものと思われます。そして、一行の中にはシレジアで決裂していたリヒノフスキー侯爵がいました。数日前にゲーテはリヒノフスキー侯爵とともに皇帝陛下の陪食にあずかっていますが、リヒノフスキー侯爵がベートーヴェンの1811年9月のシレジア訪問で和解していたのなら、ベートーヴェンに声をかけてもおかしくないにもかかわらず、このような形跡はまったくなく、おそらくベートーヴェンは一行の中にいた気に入らないリヒノフスキー侯爵を見て、このような行動をとったのではないかと思われます。

 そして、シュロッスガルテンの一件の前日には、ベートーヴェンはテープリッツに到着したベッティーナを訪問しています。ベッティーナはワイマールで些細なことでゲーテの妻のクリスティアーネと決裂していましたが、クリスティアーネはゲーテが可愛がっていたフランツを想い、結果的にはベートーヴェンとアントーニアの間を取り持つことになったベッティーナに八つ当たりした可能性があります。ベートーヴェンはこれらのことも聞いていたので、シュロッスガルテンではゲーテに対しその行動を非難したのでしょう。その後、ベートーヴェンはゲーテを批判するようになります。

 ベートーヴェンはテープリッツからカールスバートに移り、更にアントーニア一行とともにフランツェンスブルンに向かいます。アントーニアと親しかったクリスティアーネはアントーニアからベートーヴェンの不滅の恋人の手紙について聞いた可能性があります。アントーニアはベッティーナにベートーヴェンとの関係を報せていますが、明け透けなアントーニアはカールスバートとフランツェンスブルンで長くクリスティアーネと一緒に滞在した中でベートーヴェンとの関係、そして不滅の恋人の手紙について話したのではないかとも思われます。
 クリスティアーネとゲーテは毎日手紙をやり取りしていましたので、ゲーテはこれらの状況を把握しており、フランツのアントーニアを取り戻したいという願いをかなえたいという思いから、クリスティアーネにフランツェンスブルンに行かせ、情報を報告するように指示し、ベートーヴェンがテープリッツに戻る際にはカールスバートによってゲーテに会うように頼んだものと思われます。カールスバートでベートーヴェンはゲーテと再会しますが、ここでベートーヴェンは初めて私人のゲーテの真の姿に触れ、深く尊敬するようになったものと思われます。

【音楽史年表より】
1812年5月
ナポレオンはモスクワ遠征に先立ち、オーストリア皇帝をはじめ、ドイツ全土の王侯たちをドレスデンに召集した。後顧のうれいなく出陣するつもりだったのだろう。だが、ナポレオン出発後、彼らの多くがテープリッツに移って来た。避暑旅行をよそおったナポレオン抜きのサミットだったとの説もある。(1)
5月早々
ゲーテ、カールスバートに到着し、詩と真実第2部を執筆する。(1)
6/18
ゲーテの妻クリスティアーネ、カールスバートに向けワイマールを出発する。(1)
6/29、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、早朝4時にウィーンを出発し、テープリッツへ向かう。(2)
7/1、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、プラハに到着しキンスキー侯爵を訪問する。(1)
7/1頃
アントーニア・ブレンターノと夫のフランツ・ブレンターノ一行、ウィーンを出発しプラハへ向かう。(1)
7/3、ベートーヴェン(41)
アントーニア一行プラハに到着する。ベートーヴェンは予期せぬ一撃を受ける。恐らくアントーニアから妊娠について知らされる。動転したアントーニアはテープリッツ付けベートーヴェン宛に手紙を送る。(1)
7/4、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェンはアントーニアとアントーニアの従兄ブライトショーフと共にプラハを出発し、途中シュランまで同行する。アントーニアの夫はプラハに残る。(1)
7/5、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、シュランでアントーニア一行と別れ、夜を徹してテープリッツへ向かい、7/5早朝に到着する。(1)
7/5
アントーニア一行、カールスバートに到着する。(1)
7/6
アントーニアの夫フランツ、プラハを出発しカールスバートへ向かう。(1)
7/6~7/7、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、カールスバートのアントーニアへ「不滅の恋人への手紙」3通を書き送る。ベートーヴェンは第1信発信後にアントーニアがプラハでベートーヴェン宛に送った手紙を受け取る。ベートーヴェンはテープリッツにおいて交響曲第8番ヘ長調Op.93のスケッチを始める。(1)
7/7頃
アントーニアの夫フランツ、カールスバートに到着する。(1)
7/7
フランツ・ブレンターノ、ゲーテと昼食を共にする。(1)
7/8
ゲーテ、アントーニアとフランツに会う。(1)
7/13
ゲーテ、オーストリア皇后マリア・ルドヴィカの依頼により、カールスバートを出発し、テープリッツへ向かう。(1)
7/19、ベートーヴェン(41)
ゲーテ、ベートーヴェンを訪問し初めて両巨匠が会合する。ゲーテはカールスバートにいる妻クリスティアーネにベートーヴェンを称賛する手紙を書き送る・・・「私はこれまで、これほど集中力をもち、これほどエネルギッシュで、また内面的な芸術家を観たことがない」。(1)
7/20午後、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、ゲーテと共に景勝地ピリンへ行動を共にし、恐らく互いに親交のあるロプコヴィッツ侯爵の館に宿泊する。(1)
7/21、ベートーヴェン(41)
ゲーテとベートーヴェンが夕食を共にし、ベートーヴェンはピアノ演奏を行う。ゲーテは「素晴らしい演奏であった」と日記に記す。(1)
7/23、ベートーヴェン(41)
ベッティーナとその夫アルニムがテープリッツに到着する。ベッティーナはゲーテとすれ違うがゲーテに無視される。ベッティーナは前年ワイマールにおいてゲーテの妻クリスティアーネと決裂しており、ゲーテはクリスティアーネの側についていた。この日、ベートーヴェンは早速ベッティーナを訪問する。(1)
おそらくベッティーナはゲーテの妻クリスティアーネとの決裂のいきさつを批判的にベートーヴェンに語ったものとみられる。
7/24頃、ベートーヴェン(41)
ゲーテとベートーヴェンがシュロッスガルテンを散策中に貴族や廷臣たちとすれ違う。最敬礼をするゲーテに対して、ベートーヴェンは軽く会釈して通り過ぎ、この時からベートーヴェンはゲーテを批判するようになる。(1)
7/27、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、テープリッツを出発して、カールスバートへ向う。(1)
7/28、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、カールスバートに到着し、アントーニア一行と合流する。ベートーヴェンはアントーニアの従兄ブライトショーフと同室となる。(1)
8/8、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、ブレンターノ一家と共にフランツェンスブルンへ向かい、同日到着する。ベートーヴェンはフランツェンスブルンでゲーテを批判する。(1)
8/11
ゲーテ、テープリッツを出発し、カールスバートへ向う。(1)
8/12
ゲーテ、カールスバートに到着し、妻クリスティアーネと合流する。クリスティアーネはゲーテに対してベートーヴェンがアントーニアに書き送った不滅の恋人の手紙について語ったのかもしれない。フランクなアントーニアは1ヶ月のカールスバート湯治中にクリスティアーネに打ち明けた可能性がある。(1)
8/15、ベートーヴェン(41)
クリスティアーネ、カールスバートを出発し、フランツェンスブルンに着き、アントーニア一行の向かいのホテルに宿泊する。ベートーヴェンはフランツェンスブルン滞在中にクリスティアーネから、ゲーテのテープリッツへの公式出張の目的やベートーヴェンへの敬意などゲーテの真意を聞き、ゲーテへの誤解について悟ったのかもしれない。また、フランツの家庭崩壊に直面する同情の想いが、ゲーテのベートーヴェンへの寛容となって接した源であったとも考えられる。(1)
9/8、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、フランツェンスブルンを出発し、カールスバートに到着し、ゲーテと再会し和睦する。カールスバートにおいて両巨匠の真の迎合が実現したのであった。(3)
10年後の1822年にベートーヴェンはゲーテの友人で音楽研究家のホロリッツが訪ねてきたとき、カールスバートでのゲーテとの交流について次のように話している・・「その頃の私は、いまほど耳が遠くはありませんでしたが、でももうかなり聞きづらかった。あの偉大な人は、ずいぶん辛抱づよく私の相手をしてくれたものです!それで私はどんなに幸せだったかしれません・・・。あの人のためなら、私は十度命をとられてもかまわなかった・・・」。(1)

【参考文献】
1.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン「不滅の恋人」の探求(平凡社)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)
3.青木やよひ著・ゲーテとベートーヴェン(平凡社)

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