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音楽史・記事編119.ウィーン楽友協会

 ウィーン楽友協会は1870年に完成し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地として、音楽史においてもブラームスやブルックナーの交響曲を初演するなどの歴史をもち、現在では毎年新年にはニューイヤーコンサートが開催されるなど世界有数のコンサートホールとなっています。

〇ウィーン楽友協会の設立
 ウィーン楽友協会は1812年にウィーンにおける音楽振興を目的として、旧市街に設立されています。シューベルトは1821年に楽友協会主催のコンサートに登場し、歌曲「魔王」などを初演し、1825年には楽友協会の補欠理事に推挙され、後に交響曲第8番ハ長調「ザ・グレイト」D944と同一であると特定された「グムンデン・ガスタイン交響曲」を提出しています。シューベルトは1827年3月にベートーヴェンの葬列に松明を持って加わっていますが、楽友協会の一員としての参列だったとみられます。そして、同年6月には楽友協会理事に推挙されますが、翌年11月には31歳の短い生涯を閉じています。
〇ワーグナーとブラームス
 1863年ワーグナーは資金確保のためウィーン、ベルリン、ロシアへの演奏旅行を企画します。演奏曲目は歌劇「さまよえるオランダ人」序曲と「ゼンタのバラード」、「水夫の合唱」、歌劇「ローエングリン」前奏曲、歌劇「タンホイザー」序曲と大行進曲、楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と「愛の死」、楽劇「ワルキューレ」から「ワルキューレの騎行」、「ジークムントの春の歌」、楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲と2つの場面などが演奏されます。ワーグナーの大管弦楽による未発表の楽劇の抜粋などの演奏は各地で熱狂的な喝采を受けています。ブラームスはウィーンでのワーグナー演奏会のために楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」パート譜の作製に携わり、そして3夜にわたるワーグナー演奏会を聴き感銘を受け、1864年にはワーグナーに面会しています。しかし、ウィーンの批評家ハンスリックはリストやワーグナーの新ドイツ派との対立を深めて行きます。
〇1870年、現在のウィーン楽友協会が完成、ブルックナーが交響曲を演奏
 1857年に発令された皇帝ヨーゼフのウィーン大改造計画により、ウィーンでは旧市街を取り囲んでいた城壁と堀が取り壊され新たにリング通りが建設され、そして、旧市街にあったウィーン楽友協会は3年の工期を経て1870年に、大ホール、小ホールを備えた現在の楽友協会として完成しています。
 1873年には無名のブルックナーが楽友協会大ホールで交響曲第2番を演奏しています。ブルックナーの大規模な管弦楽はウィーンでの評価は得られていなかったものの、恐らくブラームスにとっては交響曲第1番の初演の準備を行う中、ブルックナーの交響曲の演奏は刺激になったものと見られます。
〇ブラームス、ウィーン楽友協会で交響曲第2番、交響曲第3番を初演
 1862年、ウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任したブラームスはウィーン定住を決意し、1871年にはウィーン楽友協会の音楽監督に就任します。そして、辞任する1875年までのフィルハーモニー演奏会を指揮します。
 ブルックナーの交響曲がウィーンで厳しい評価を受ける中、慎重を期したブラームスは交響曲第1番をカールスルーエで初演し、1876年満を持してウィーン初演を行い、観客に強い衝撃を与え、ビューローは「ベートーヴェンの第10交響曲」と述べたほどでした。ブラームスは、翌年にはウィーン楽友協会で交響曲第2番を初演し、83年には交響曲第3番を初演し好評を得ています。交響曲第4番は1885年10月にマイニンゲンで初演し成功を収め、翌年1/17にウィーン初演が行われますが不評に終わっています。交響曲第4番ではバロック以前の教会旋法などの古典音楽への回帰、さらにバッハのカンタータの主題などプロテスタント音楽を用いたことがウィーンの聴衆に受け入れなかった原因とも考えられます。
〇ブルックナーの演奏活動
 ブルックナーはリンツ近郊に生まれ、長く聖フローリアンのオルガン奏者を務め純正律音楽に親しんでいました。31歳でウィーンのゼヒターに音楽の指導を受け、ワーグナー音楽の影響を受け、1866年42歳でようやく交響曲第1番を作曲しています。68年にはウィーン宮廷礼拝堂オルガン奏者、ウィーン音楽大学教授に就任し、ブルックナーは49歳になってはじめて楽友協会で交響曲第2番を初演しますが、作曲家として無名のブルックナーはフィルハーモニーの団員からは冷遇され、以降交響曲第3番の初演も嘲笑されるなどの状況が続き、1881年の交響曲第4番「ロマンティック」の初演で成功を収めます。しかしその後もブルックナーはワーグナー派とみなされ、ハンスリックなどのブラームス派との対立から、たびたび非難を受けることとなります。しかし、ブルックナーは1892年の交響曲第8番初演のころにはようやくオーケストラメンバーやウィーンの聴衆からも敬意をもって受け入れられるようになっています。
〇チャイコフスキー、マーラー作品の初演
 ウィーンでは異色のロシアのチャイコフスキーのバイオリン協奏曲が1881年ウィーン楽友協会で初演されています。初演はロシア音楽になじみのないウィーンの聴衆から激しい野次で迎えられるものの、今日ではベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスのバイオリン協奏曲とともに4大バイオリン協奏曲として人気を得ています。
 また、指揮者としての名声の高かったマーラーの交響曲はヨーロッパ各地で初演されていますが、最後の交響曲である第9番ニ長調は1912年6月、マーラーの没後に、ブルーノ・ワルターの指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によってウィーン楽友協会大ホールで初演されています。

【音楽史年表より】
1873年10/26初演、ブルックナー(49)、交響曲第2番ハ短調(初稿)WAB102
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演される。これはリヒテンシュタイン公からの700グルデンの援助を得て実現したもので、ブルックナーの交響曲のウィーンにおける最初の演奏となる。ブルックナーはこの演奏に先立ち、J・S・バッハのハ長調トッカータ第4番、およびオルガン即興演奏を行う。(1)
この初演は当時ウィーンで開かれた万国博覧会の行事の一環として行われた。ブルックナーはこの交響曲の初演の因縁もあって、まったく謙虚な気持ちでウィーン・フィルハーモニーに献呈しようとした。しかし、フィルハーモニーの人たちはウィーンではまだ田舎者にも近いブルックナーを冷遇したので、この献呈は撤回された。(2)
1876年12/17ウィーン初演、ブラームス(42)、交響曲第1番ハ短調Op.68
ウィーンでブラームスの指揮で演奏される。初演は11/4にカールスルーエの宮廷劇場でデッソフの指揮で行われ、かなりの成功を収めていた。(3)
一瞬の隙もなく構築されたこの交響曲に関してハンス・フォン・ビューローが「ベートーヴェンの第10番交響曲」と述べた話は有名である。(4)
1877年12/16初演、ブルックナー(53)、交響曲第3番ニ短調(第2稿)WAB103
楽友協会演奏会でブルックナーの指揮で初演されるが、不評に終わる。(1)
ブルックナーの未熟な指揮を楽員は嘲笑し、聴衆は楽章を経る毎に数を減らした。しかし、少数の人は熱心にブルックナーを支持する。その中に17歳のマーラーもいた。後にブルックナーは大幅に改訂し、第3稿が1890年12/21ハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニーによって初演され、大拍手を受けることになる。(2)
1877年12/30初演、ブラームス(43)、交響曲第2番ニ長調Op.73
ウィーンでハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で初演される。交響曲第1番の苦吟とは正反対に第2番はきわめて短期間で作曲された。また、オーケストレーションについても、作曲手法についても、前作よりはるかに自由で、のびやかな雰囲気に満ちている。作品は1877年6月にペルチャハで作曲に着手し、この年に完成をみている。ブラームスはこの作品について友人のビルロートに次のように述べている・・・せせらぎの音をたて小川、青い空、陽光、そして涼しい緑樹の陰がこの作品のすべてです。ペルチャハはどんなにか美しいところか。(4)
1881年2/20初演、ブルックナー(56)、交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(第3稿、1878/80年稿)WAB104
ハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演され、大成功を収める。(ブルックナー事典より)
初演には1878/80年稿が使われたものと思われる。(2)
1881年12/4初演、チャイコフスキー(40)、バイオリン協奏曲ニ長調Op.35
ウィーンで、ウィーン・フィルハーモニーの演奏会で指揮者リヒターの曲の短縮の勧めを断り原曲のまま、短い練習で初演される。モスクワ音楽院教授のA・ブロツキに絶賛されたものの、初演はウィーンの聴衆のすさまじい野次に迎えられる。ウィーンの新聞は、チャイコフスキーの音楽は独創性と粗野とアイデアと繊細さの珍しい混ぜ物、・・など手厳しく評論し、ウィーンのホテルで偶然この新聞を読んだチャイコフスキーは屈辱的なロシア感に深く傷つくが、現在ではベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームスに並ぶ名曲とされる。(5)
1883年2/11初演、ブルックナー(58)、交響曲第6番イ長調WAB106第2楽章第3楽章
ウィーン・フィルハーモニーとヤーンの指揮で第2楽章と第3楽章が初演される。(1)
全曲の演奏が見送られた理由は、作品が長大であることと、聴衆には理解されやすいところだけのためであったが、聴衆の大部分からは暖かい支持を得たものの、ハンスリックを中心とするウィーンの批評家からは冷遇された。(2)
1883年12/2初演、ブラームス(50)、交響曲第3番ヘ長調Op.90
ウィーン楽友協会大ホールでハンス・リヒターの指揮でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演される。作品は初演時から高い評価を得る。ハンスリックは「健康的で生気あふれるベートーヴェンの第2期を思わせ、ところどころにシューマンやメンデルスゾーンのあのロマン派薄光がほのかに見えてくる」と評価する。クララもまた「すべての楽章は宝石のようです。最初から最後まで森や林の神秘的な魅力に満ちています」と手放しの感動を述べる。(4)
1886年1/10初演、ブルックナー(61)、讃歌「テ・デウム」ハ長調WAB45
管弦楽伴奏版がハンス・リヒターの指揮ウィーン・フィルハーモニーによって初演される。(1)
かねてからブルックナーに敵対し、これまでブルックナーの作品に酷評を与えてきたウィーンの批評界の大御所でウィーン大学教授のハンスリックも、今回はこの作品にある程度の妥協を見せたという。「テ・デウム」はこれまでの宗教曲および合唱音楽祭の経験を活かした力作であり、そしてブルックナーは生前にもし最後の交響曲第9番の終楽章を完成できなかったら、自作の「テ・デウム」をその代わりに使っても良いと語ったという。(2)
1886年1/17ウィーン初演、ブラームス(52)、交響曲第4番ホ短調Op.98
ハンス・リヒターの指揮、ウィーン・フィルハーモニーによってウィーン初演される。マイニンゲンの初演では大成功を収めたが、ウィーンでは成功を収めることはなかった。おそらくバロック的思考を見せていることがその原因とみられるが、ブラームスが亡くなる少し前の1897年3月の演奏以降、一般的に受けいれられるようになった。(3)
1890年12/21初演、ブルックナー(66)、交響曲第3番ニ短調(第3稿)WAB103
1890年に大幅の改訂された第3稿がハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニーによって初演され、大拍手を受ける。改訂稿は1890年、かつてブルックナーの弟子であったフランツ・シャルクの校閲によって、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフが印刷費を負担して、レッティヒ社から出版される。(2)
1891年12/13初演、ブルックナー(67)、交響曲第1番ハ短調(第2稿、ウィーン新版)WAB101
ハンス・リヒター指揮のウィーンのフィルハーモニー協会の第3回フィルハーモニー演奏会で初演される。(2)
1892年12/18初演、ブルックナー(68)、交響曲第8番ハ短調(第2稿)WAB108
この交響曲は改訂され、ハンス・リヒターの指揮、ウィーン楽友協会大ホールで第4回フィルハーモニー演奏会で初演される。この初演は、オーケストラも大部分の聴衆もブルックナーに敬意を表し、まずまずの成功を収める。しかし、ハンスリックやブラームス派の人たちからは非難された。ブルックナーは書き上げたこの楽譜を1890年3月にオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世に「深甚の畏敬をもって」献呈し、印刷の製作費を負担してもらうことになった。(2)
1894年11/25初演、ブルックナー(70)、交響曲第2番ハ短調(最終稿)WAB102
初演される。(1)
1899年2/26初演、ブルックナー(没後)、交響曲第6番イ長調WAB106
マーラー指揮ウィーン・フィルハーモニー演奏会で初演される。ブルックナーの交響曲第6番イ長調WAB106の全曲初演はマーラーにゆだねられたが、マーラーはそれをなかなか実現せず、ブルックナーが死去して2年ほどたった1899年2/26にフィルハーモニー演奏会で行っている。しかも、この時に当時38歳のマーラーは全曲ではなく、作品に対する聴衆の支持を得るために、乱暴にも作品のかなりをカットし短縮して演奏した。(2)
1912年6/12初演、マーラー(没後)、交響曲第9番ニ長調
作曲者の死後、ウィーンでマーラーの弟子ブルーノ・ワルターの指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演される。マーラーはこの曲を書いた頃には、体力的に疲労し、詩をしばしば考えた。この曲のすぐ前に書いた「大地の歌」に「第9番」の交響曲の名称を与えるはずのものを、「第9」にまつわる宿命的な先輩作曲家の生涯を考慮して「第9番」と呼ぶのを避けたほどでもあった。それだけに、こんど書かれた「第9番」の交響曲には、マーラーの死への直視の姿があるといえないこともない。(6)

【参考文献】
1.ブルックナー・マーラー事典(東京書籍)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・ブルックナー(音楽之友社)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・ブラームス(音楽之友社)
4.西原稔著、作曲家・人と作品シリーズ ブラームス(音楽之友社)
5.伊藤恵子著、作曲家・人と作品シリーズ チャイコフスキー(音楽之友社)
6.作曲家別名曲解説ライブラリー・マーラー(音楽之友社)

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