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音楽史・記事編115.スヴィーテン男爵とモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン

 本編ではモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンと古典派を代表する3人の作曲家と交流があったスヴィーテン男爵について見て行きます。

〇外交官スヴィーテン男爵、バッハ、ヘンデルの作品を収集する
 スヴィーテン男爵が生まれたオランダは、マクシミリアン1世がフランドルをハプスブルク家の統治下に組み入れて以来、神聖ローマ帝国の勢力下にあり、ハプスブルク家がスペインとオーストリーに分裂した以降はスペイン・ハプスブルク家の統治下に入り、長くスペインからの独立戦争を戦い、30年戦争を経て独立を果たしています。現在でもベルギーはフランス語、ドイツ語、オランダ語系言語のフラマン語の3言語が公用語となっているように、フランドルでは使用される言語が多様で、イングランド・ハノーファー連合国の中間に位置し、イギリスとも近い関係にあり、このような多言語地域に生まれたスヴィーテン男爵は多くの言語を話し、その語学力を活かして外交官としてプロイセンのベルリンなどに駐在しています。スヴィーテン男爵の父はマリア・テレジアの主治医であり、その関係で父とともにウィーンに来たとされます。スヴィーテン男爵はプロイセンなどに派遣中に、エマヌエル・バッハなどを通じてセバスティアン・バッハの多くの楽譜を収集し、またヘンデルの楽譜の収集にも熱心で、ウィーンにバロック期のプロテスタント音楽の楽譜を持ち込み、演奏を行っています。

〇モーツァルト、スヴィーテン男爵のサロンでバッハとヘンデルの音楽を学ぶ
 スヴィーテン男爵はプロイセンなどの外交官の任務を終えると、ウィーンに戻り宮廷図書館長となります。スヴィーテン男爵はプロテスタント地域のセバスティアン・バッハやイギリスのヘンデルなど多くの楽譜の収集を行っていました。そしてこれらの音楽を聴くためのサロンを毎週日曜日に宮廷図書館で開催しています。このサロンにはモーツァルトが新妻のコンスタンツェを伴って訪れていました。モーツァルトにとってバッハの音楽は新しい音楽様式であり、楽譜を自宅に持ち帰り筆写し、早速バッハの対位法様式によるフーガなど作曲を行っています。スヴィーテン男爵が持ち帰ったバッハの音楽はクラヴィーア曲などに限られ、モーツァルトが教会で演奏されるバッハのモテットを知ることになるのは1789年にライプツッヒの聖トーマス教会を訪問してからになります。バッハの音楽様式は晩年のモーツァルトの作曲に大きく影響しています。スヴィーテン男爵は騎士同好会や芸術家協会などの運営に関わっており、モーツァルトはこれらが主催する演奏会のためにヘンデルのオラトリオ・メサイヤなどの編曲を行っています。モーツァルトは演奏が困難であった管楽器パートを当時の楽器の性能に合わせて書き換えるなど編曲し、現在でもメサイヤの演奏はモーツァルトの編曲版での演奏が一般的となっています。
 スヴィーテン男爵はモーツァルトが亡くなった時、葬儀の手配を行っています。モーツアルトの第3等葬儀は一般人の平均的な葬礼でしたが、この時モーツァルトは借金も残しており、いたしかたのないものであったのでしょう。

〇ベートーヴェン、スヴィーテン男爵と交流する
 ベートーヴェンはボンで師のネーフェからセバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を教材にピアノを学んでおり、平均律クライーア曲集を全て暗譜していました。この時代にはウィーンではバッハの音楽は知られておらず、スヴィーテン男爵はベートーヴェンが演奏したバッハに大いに感激したものと思われます。そして、男爵はベートーヴェンにバッハを演奏してもらうために自宅に招いています。1799年ベートーヴェンは交響曲第1番を作曲します。この交響曲は自身をウィーン音楽留学させたボンの恩人であるマクシミリアン選帝侯への献呈が予定されていました。しかし、すでにボン宮廷はフランスの支配下におかれ消滅しており、マクシミリアン選帝侯はウィーンのヘッツェンドルフで孤独に生きていました。そして、交響曲が出版される前に死去したため、この交響曲はスヴィーテン男爵に献呈されることとなります。

〇スヴィーテン男爵、ハイドンのオラトリオの英語の台本をドイツ語に翻訳する
 スヴィーテン男爵は芸術家協会などの演奏会でオラトリオの演奏を行っており、老齢のハイドンにオラトリオ作曲について熱心に持ち掛け、ハイドンがイギリスから持ち込んだ天地創造の英語の台本をドイツ語に翻訳し、ハイドンの晩年の大作オラトリオ「天地創造」の作曲、上演に協力しています。また、オラトリオ「四季」ではブロッケスの叙事詩をもとに台本を提供し、ハイドンの最後の作品となったオラトリオに関わっています。

【音楽史年表より】
1782年4/10、モーツァルト(26)
4/10付の父レオポルト宛ての手紙によると、この頃モーツァルトは彼の良き理解者となるゴッドフリート・フォン・スヴィーテン男爵を通して、バッハを中心とするバロックのレパートリーに親しむようになった。毎週日曜日の12時にモーツァルトは現在ウィーンの国立図書館となっているスヴィーテン男爵のサロンへ通っていた。ここではヘンデルとバッハだけが演奏され、モーツァルトはバッハのフーガ等を持ち帰り筆写し、収集している。スヴィーテン男爵は1777年まで20年以上にわたって外交官を務め、外国赴任中にバッハやヘンデルをはじめとするバロック音楽の楽譜収集を行い、とりわけ最後の赴任地であったベルリンではバッハの息子エマヌエルや弟子たちを通じてバッハ作品の貴重な楽譜を収集した。(1)
4/20頃作曲、モーツァルト(26)、プレリュードとフーガ ハ長調K.394
毎週日曜日スヴィーテン男爵のサロン(宮廷図書館)でバッハやヘンデルを演奏していたモーツァルトは楽譜を自宅へ持って帰ることを許されていた。このプレリュードとフーガはバッハやヘンデルを気に入ったコンスタンツェのために作曲された作品。(1)
1783年3月、モーツァルト(27)
モーツァルト、スヴィーテン男爵に聴かせるため、ザルツブルクの父レオポルトにミサ曲変ロ長調K.275(1777年作曲)、ミサ曲ハ長調「戴冠式ミサ」K.317(1779年作曲)、ミサ・ソレムニス ハ長調K.337(1780年作曲)の総譜の送付を依頼する。(1)
1785年3/13初演、モーツァルト(29)、カンタータ「悔悟するダヴィデ」K.469
モーツァルトの指揮によりでブルク劇場で初演される。1771年にヴァン・スヴィーテン男爵らによって設立された音楽家の遺族への年金支給を目的とした芸術家協会からオラトリオの作曲を依頼されたモーツァルトは、多忙のため、ザルツブルクで初演したハ短調ミサ曲K.427からキリエとグローリアを選び、新作のアリア2曲を追加してオラトリオに仕上げた。(1)
1788年2/26、モーツァルト(32)
モーツァルト、ヴァン・スヴィーテン男爵が設立した同好騎士協会のオラトリオ上演のため、エステルハージ伯爵家で行われたエマヌエル・バッハのオラトリオ「キリストの復活と昇天」の私的演奏会で指揮ないしクラヴィーアを担当する。また、テノール歌手のアーダムベルガーのためにこの曲のアリアを編曲する(K6.537d)。(1)
1789年4/22、モーツァルト(33)
モーツァルト、バッハゆかりの聖トーマス教会を訪れ、バッハの弟子であるトーマス・カントルのヨハン・フリードリヒ・ドーレスの前でオルガンを演奏し、この老音楽家をいたく喜ばせたと伝えられる。また、モーツァルトはトーマス学校の合唱隊が歌うJ・S・バッハのモテット「主に新しき歌を歌わん」BWV225(1727年作曲?)を聞き、感激したと言われる。ウィーン楽友協会資料室にはモーツァルトの書き込みが入ったこの曲の筆写総譜が保管されており、モーツァルトがライプツィヒで書き込みを行ったことを裏付けている。(2)
1791年12/16、モーツァルト(没後)
おそらく12/6モーツァルトの葬儀が聖シュテファン大聖堂で執り行われる。参列者は親族のほか、ヴァン・スヴィーテン男爵、サリエリ、宮廷オルガン奏者のアルブレヒツベルガー、弟子のジュスマイヤーとフライシュテットラー、シカネーダー一座のベネディクト・シャックとシカネーダー夫人ゲルルなどであった。棺はそののち、市壁外にある聖マルクス墓地へと運ばれたが、親族とその他の参列者は当時の慣例に従って墓地まで付き添わず、市壁の門の一つシュトーベントーアで別れを告げた。モーツァルトが受けた第3等葬儀はウィーン市民の標準的な葬儀ランクで共同墓地への埋葬もこのランクの規定にかなうものであった。モーツァルトの死はヨーロッパ中に伝えられ、各地の新聞にこの偉大な音楽家の死を報じる記事が掲載された。(2)
1794年12/15、ベートーヴェン(23)
ヴァン・スヴィーテン男爵、リヒノフスキー侯邸のベートーヴェンに招待状を送る・・・「もし、差し支えなければ、今度の水曜日に私の家にいらっしゃいませんか?夜8時半に就寝用帽子など一切を持ってお越しいただきたい。即答くだされるよう。12月15日月曜日、スヴィーテン」。スヴィーテン男爵はバッハと、ヘンデル作品のコレクターとして知られ、しばしばサロンコンサートを開いていた。バッハ作品を達者に演奏するベートーヴェンも男爵邸サロンによく招待され、サロンコンサートにベートーヴェンが出演したときは、全ての客人が帰宅した後までもベートーヴェンだけを引き止めバッハのフーガを数曲演奏してもらうこともしばしばあった。のちにベートーヴェンはスヴィーテン男爵に交響曲第1番ハ長調Op.21を献呈する。(3)
1795年8/20、ハイドン(63)
ハイドン、ウィーンに戻る。ハイドンはエステルハージ侯爵家の4人目の君主である宗教音楽を愛好したニコラウス2世からのミサ曲、ウィーンの音楽愛好家スヴィーテン男爵からのオラトリオの注文により、より大規模な音楽作品に意欲を燃やす。なお、ハイドンはイギリスからリドレーの「天地創造」英語版を持ち帰る。(4)
1798年4/29初演、ハイドン(66)、オラトリオ「天地創造」Hob.ⅩⅩⅠ-2
ウィーンのシュヴァルツェンブルク公邸において、作曲者自身の指揮で私的初演が行われる。4/30にも演奏される。ハイドンは1796年~98年の2年間の推敲を重ねオラトリオ「天地創造」を完成した。ハイドンがロンドンから持ち帰った旧約聖書の「創世紀」とミルトンの「失楽園」をもとにした英語の台本をヴァン・スヴィーテン男爵が自由にドイツ語に訳した。ヴァン・スヴィーテン男爵によって完成されたドイツ語による台本は、3部分から構成され、第1部と第2部では三天使を中心に6日間にわたる神の天地創造の過程が、第3部では楽園におけるアダムとイヴの愛が題材となる。(4)
1800年3月以前、ベートーヴェン(29)、交響曲第1番ハ長調Op.21
交響曲第1番を完成する。自筆譜が消失しており、正確な成立年代は不明。4/2には初演されているので遅くとも3月には成立脱稿され、演奏会用のパート譜作りの準備がなされたものと考えられる。この交響曲は最終的にヴァン・スヴィーテン男爵に献呈されるが、当初はボンのマクシミリアン・フランツ選帝侯への献呈が予定されていた。しかし、フランス軍の侵攻により既にボンの宮廷は消滅しており、選帝侯は各地を転々としたのち、1797年からウィーンのシェーンブルン宮殿の近くのヘッツェンドルフで孤独な晩年を送り、1801年7/26に亡くなった。(5)
1801年4/24初演、ハイドン(69)、オラトリオ「四季」Hob.ⅩⅩⅠ-3
シュヴァルツェンベルク公邸で私的に初演される。ハイドンは前作のオラトリオ「天地創造」を完成初演したのち、約2年間の推敲を重ね、オラトリオ「四季」を完成する。台本はスコットランドの詩人トムスンが1726年から30年にかけて発表し、すでに1745年にはブロッケスによるドイツ語訳が出版されていた叙事詩「四季」をもとに、ヴァン・スヴィーテン男爵が作成した。ただし、第34番にはビュルガー、第36番にはヴァイセという当時ウィーンで親しまれていた2人の詩人による詩が用いられている。ヴァン・スヴィーテン男爵による台本は春、夏、秋、冬の4部分から構成され、舞台はハイドンに馴染み深い下オーストリアの農村に移されている。(4)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.西川尚生著、作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
3.平野昭著、作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
4.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
5.KINSKY-HALM/Das Werk Ludwig van Beethovens (G.Henle Verlag 1955)

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