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音楽史年表記事編61.ゲーテの「若きウェルテルの悩み」のモデルとベートーヴェン

 1774年ゲーテはデビュー作として自らの体験をもとにした書簡小説「若きウェルテルの悩み」を出版します。この小説の第2部ではベートーヴェンが深く係わりを持つフランクフルトのブレンターノ家の人々がモデルとして登場します。ウェルテルが恋したロッテのモデルは、ベッティーナの母のマクシミリアーネです。また、小説ウェルテルのフィナーレで、自殺したウェルテルにしがみついて離れなかった「最も可愛がられていた長男」のモデルは、ベッティーナの異母兄フランツと見られます。・・・いちばん可愛がられていた長男は、いつまでもウェルテルの唇からはなれず、とうとうウェルテルが息をひきとってから、人々がその子を無理に引き離しました。(ゲーテ作、竹山道雄訳、「若きウェルテルの悩み」より)
 ゲーテは作家仲間の女流作家ラロッシュの娘のマクシミリアーネに恋をしますが、マクシミリアーネはフランクフルトの金融業も営む豪商ペーター・アントン・ブレンターノの後妻として嫁ぐことになります。小説中で述べているように、ゲーテはブレンターノ家の前妻の子であるフランツをもっとも可愛がったのでしょう。
 そして1798年フランツはウィーンのビルケンシュトック伯爵の長女アントーニアと結婚します。アントーニアは当主となっていたフランツの嫁として大家族のブレンターノ家を切り盛りする立場になったのですが、おそらくこの重圧に耐えきれず心身症を患うことになったものと思われます。アントーニアは父ビルケンシュトック伯爵の看病のためにウィーンに戻り、父の葬儀の後も膨大な遺品の整理のためウィーンにとどまります。おそらく、そのままウィーンに残り、フランツと離婚あるいは別居することも考えていたようです。そのため、ベッティーナの姉クニグンダとその夫で法律家のサヴィニー、そしてベッティーナがアントーニアのウィーンの実家を訪問したものと見られます。ベッティーナはウィーンのビルケンシュトック邸でベートーヴェンの月光ソナタを聴き、ベートーヴェンという作曲家にひかれ、ベートーヴェンを探し当てます。
 ベッティーナはウィーンを去りますが、ベートーヴェンはベッティーナの消息を求めてビルケンシュトック邸を頻繁に訪れるようになり、やがてアントーニアと親しくなったようで、アントーニアはベートーヴェンの人間性に強くひかれるようになります。1811年3月にはベッティーナは兄の友人アルニムと結婚しますが、この頃にはアントーニアはベッティーナに「ベートーヴェンはもっとも愛する人となりました」と書き送っています。ベートーヴェンにとって最も幸せを感じていたこの時期に、ベートーヴェンの創作の中でも喜びと幸福感にあふれた名曲であるピアノ三重奏曲変ロ長調「大公」Op.97が生まれます。ベートーヴェンは夏には療養と称してテープリッツへ出かけますが、目的はアントーニアと過ごすためだったのでしょう、身の回りの世話をしていた秘書のオリヴァーをウィーンへ返し、自身はアントーニアとアントーニアの護衛役をしていたアントーニアの母方の従兄弟のネフツェルと合流しアントーニアの母の出身地であるシレジアへ向かっています。
 ベートーヴェンは9月末にはシレジアのグレーツでミサ曲ハ長調Op.86を演奏しますが、この演奏の事実が公表されたのは42年後の1853年の新聞記事に寄ります。セイヤーの伝記には地元の体育の教師がティンパニをつとめるなど詳しくその様子が伝えられており、青木やよひ氏の「不滅の恋人の探求」によれば、42年後にアントーニアがオットー・ヤーンにこのことを語り、セイヤーが伝記に収録したとされます。また、一般にベートーヴェンがシレジアのグレーツでミサ曲ハ長調を演奏したことで、決裂していたリヒノフスキー侯爵と和解したとされていますが、おそらくこの和解はなかったものと見られます。なぜならば、ベートーヴェンがシレジアを訪れた別の目的が明らかとなり、また翌年ベートーヴェンがゲーテとともにテープリッツのシュロッスガルテンで皇帝一家一行とすれ違ったときに、深く敬礼するゲーテに対し、ベートーヴェンは軽く一礼し通り過ぎようとしましたが、一行の中にいたリヒノフスキー侯爵に対しては反感を持っていたためそのような行動をとったものと思われるからです。
 シレジアからウィーンに戻ったベートーヴェンは、歌劇「フィデリオ」、中期の3曲セットの交響曲でともに達成できなかった「夫婦の愛の勝利」をテーマとした新たな3曲セットの交響曲の創作を思い立ち、交響曲第7番イ長調Op.92の作曲に着手します。

【音楽史年表より】
1811年1月末頃、ベートーヴェン(40)
1811年1月末頃からアントーニア・ブレンターノは数週間も病臥して、まったく人に会えない状態がつづいた。遺産の目録作りによる過労だったにちがいない。すると、ベートーヴェンがほとんど毎日やって来て、控えの間のピアノを前に座り、彼女のためにしばらく慰めの音楽を弾きつづけ、終わるとまた来たときと同じように無言で誰の目も気にすることなく帰っていった。アントーニアは40数年後にオットー・ヤーンにこの光景を語り、「こうして二人のあいだにやさしい友情が育っていったのです」とつけ加えている。なお、当時ブレンターノ夫妻は実質上離婚状態にあり、フランクフルトに事業拠点があった夫フランツは、稀にしかウィーンを訪れなかった。(1)
3月、ベートーヴェン(40)
ベッティーナ・ブレンターノ、兄の友人である作家アヒム・フォン・アルニムと結婚する。(2)
3/11、ベートーヴェン(40)
まだ、病床を離れきれずにいた、アントーニア・ブレンターノはベッティーナに次のような手紙を送る・・・ベートーヴェンは、私のもっとも愛する人となりました。彼の卓抜さそのままのつきあい方、いかなる感情にもたとえようのない感情を呼びさます彼の演奏、それは彼のほの暗くかげった高い丸天井に覆われた音芸術の霊がやどる聖櫃の中から、それらを神々しいすがたによみかえらせるかのようです。彼の在り方すべてが素朴で気高く善意にみち、そして彼の心のやさしさは、もっとも感じやすい女性のそれにもまさるものです。(2)
3/26作曲、ベートーヴェン(40)、ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調「大公」Op.97
ベートーヴェンが残したピアノ三重奏曲の最高傑作であるばかりではなく、このジャンルにおける古今の最高傑作として名高い作品である。ベートーヴェンはOp.70において、すでにピアノ三重奏に関するおおよその作法を完成していたが、このOp.97で、計り知れないほどの大きな飛躍を遂げることになった。自筆譜には冒頭に1811年3月3日、最後には1811年3月26日の日付が記載されているため、わずか3週間ほどで作曲されたかに見えるが、1810年のスケッチブックにこの作品のスケッチがいくつか残されており、実際はさらに長期を要したと思われる。作品はルドルフ大公に献呈された。(3)
4/11初演、ベートーヴェン(40)、ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調「大公」Op.97
ウィーンにおいて、シュパンツィヒのバイオリン、リンケのチェロ、ベートーヴェンのピアノによって初演される。(3)
4/12、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、ベッティーナに約束したゲーテへの初めての手紙を書く。この手紙でベートーヴェンは「エグモント」のための音楽のゲーテへの献呈について述べる。(1)
5/2、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェンの手紙を託されたオリヴァはワイマールのゲーテを訪ねる。(1)
6/25、ベートーヴェン(40)
ゲーテ、カールスバートからベートーヴェンに手紙の返事を書き送る。「貴下の親愛なるお手紙をオリーヴァ氏より受け取り、喜びにたえません。・・・これまであなたの御労作が、熟練の芸術家や素人愛好家によって演奏されるのを聴くたびに、一度あなたご自身のクラヴィーアで聴く機会を得たい、またあなたの非凡な才能を楽しみたいと願わずにはいられなかったからです。愛すべきベッティーネ・ブレンターノは、あなたがお寄せくださった御好意を受けるにふさわしい人です。彼女は夢中になって、心底あなたに傾倒してあなたのことを話しております。そして、あなたと共に過ごした時間を、自分の人生の最も幸福な時とみなしています・・・衷心より御礼申し上げます」。これを受け取ったベートーヴェンは、心が舞いあがるばかりの喜びを感じたにちがいない。儀礼的な短い返信であっても不思議ではないゲーテの手紙が、それに反して、敬意にみちたあたたかいものだったからだ。(1)(2)
8月初め、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、ボヘミアのテープリッツへ移る。(3)
9/16、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、行動を共にしてきた友人兼秘書役のオリヴァを、なぜか急に一人でウィーンへ帰らせる。(2)
9/18、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、テープリッツを出発、プラハを経て、シレジア地方のグレーツへ向かう。一人でテープリッツを発ったベートーヴェンは、途中プラハあたりでアントーニア・ブレンターノ、ネフツェル一行と落ちあい、以後の行動を共にしたのではないか。この仮説はネフツェルにもアントーニアにも、シレジアがゆかり深い土地であることが判明した以上、説得力あるものとなった。(2)
9月末、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、シレジアのグレーツでミサ曲ハ長調Op.86を上演する。(3)
10月初旬、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、ウィーンへ戻る。(3)
11月頃、ベートーヴェン(40)
ベートーヴェン、交響曲第7番イ長調Op.92の作曲に着手する。(3)

【参考文献】
1.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
2.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン「不滅の恋人」の探求(平凡社)
3.ベートーヴェン事典(東京書籍)

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