音楽史・記事編124.ドボルザークの創作史
ドボルザークは「ドヴォルジャーク」、「ドヴォルザーク」、「ドボルザーク」などと表記されます。これはチェコ語表記の名前をチェコ語として発音するか、あるいはドイツ語や英語などとして読むかによるものではないかと思われますが、本編では日本で使われてきた「ドボルザーク」を使用します。
〇ボヘミアの歴史
ヨーロッパ中央部に位置するチェコ共和国は古代から南のラテン語民族(西ローマ帝国、ローマ・カトリック教会)、北のゲルマン民族、東のスラヴ民族(東ローマ帝国の流れをくむロシア正教会)に挟まれ、地理的にはヨーロッパの民族の十字路とでもいうべき地域にあり、周辺の勢力から支配を受けてきた苦難の歴史を持っています。ボヘミアとモラヴィアからなる現在のチェコ共和国は、古代にはケルト人が居住し、その後ゲルマン人が定住し、さらに6世紀にはスラヴ人が定住し現在のチェコ人が形成されたとされ、ドナウ河を国境としローマ帝国と対峙し、カール大帝のフランク王国時代にはフランク王国に従属し東の遊牧民族と対峙します。さらに、神聖ローマ帝国成立後はハプスブルク家に従属するものの、1411年にはローマ・カトリック教会の腐敗を糾弾したカレル大学の学長ヤン・フスは宗教改革の先駆けとなる活動を行い、カトリック教会から破門され火刑に処せられます。その後もフス派の信者は神聖ローマ帝国軍と戦い、最終的にはカトリック教会に復帰しますが、これらの歴史はスメタナの交響詩「わが祖国」で描かれます。
1517年、ドイツのマルティン・ルターによって宗教改革が起こり、ルター派はプロテスタントとしてローマ・カトリック教会から分離します。ボヘミアではもともと改革派に近く、1618年プロテスタントのプファルツ選帝侯がボヘミア王位に就くと、ハプスブルク家の皇帝フェルディナンド2世は帝国内の宗教的統一を図るためにボヘミアに侵攻しヨーロッパ史上最大の宗教戦争である30年戦争が勃発します。ボヘミア、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、オランダ、フランスを巻き込んだ30年戦争はハプスブルク家が敗北し、神聖ローマ帝国はドイツにおける主権を失うもののハプスブルク家はボヘミア王、ハンガリー王、そして名目上の神聖ローマ皇帝位を確保し、オスマン・トルコの侵攻に対するヨーロッパの防波堤の役割を担ってゆきます。
第一次大戦後、ボヘミアはチェコスロバキア共和国として独立を果たし、1939年にはドイツに編入され、第二次大戦後に共和国は復活しますが、ソ連軍による侵攻を受けソヴィエト連邦の影響下に入り、1989年のビロード革命により真の民主化を勝ち取り、1990年プラハの春国際音楽祭でスメタナの「わが祖国」全曲がラファエル・クーベリック指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって記念すべき演奏が行われ、国家としての奇跡の復活を遂げています。
〇ドボルザークの創作
ボヘミアの古都プラハの北方の田舎町に生まれたドボルザークは、肉屋を営む街楽師の家に生まれ、次第に音楽的才能を見せるようになり、16歳でプラハのオルガン学校に入学し苦学して音楽の基礎を勉強し、ビオラの演奏家になり、プラハ国民劇場仮劇場のビオラ奏者となり、この時期には交響曲第1番ハ短調「ズロニツェの鐘」を作曲するなど作曲家としての道を歩み始めています。ドボルザークは生涯を通して交響曲などの管弦楽曲、ピアノ独奏曲、連弾曲、またピアノ伴奏歌曲集、室内楽では弦楽四重奏曲、また宗教曲ではレクイエムやテ・デウムなどのカトリック典礼に基づく作品を残しており、その多くはボヘミア、モラヴィアやスラヴなど民族色豊かな作品となっています。
〇ブラームスとの出会い
ドボルザークの時代、ボヘミアはオーストリア=ハンガリー二重帝国に属しており、ドボルザークはオーストリア国家奨学金を得るために作品を応募し、毎年のように最高賞を受けており、応募作品の審査員が楽友協会のブラームスでした。ブラームスはベルリンの出版社ジムロックにドボルザークを紹介し、モラヴィア二重唱曲集の出版の成功により、さらにジムロック社は当時好評を得ていたブラームスのハンガリー舞曲のような作品としてスラヴ舞曲集作曲の依頼を行い、このようにしてドボルザークの名曲が生まれています。また、ドボルザークはブラームスの交響曲第3番ヘ長調に感銘を受け、交響曲第7番ニ短調を作曲します。なお、ドボルザークの初期の管弦楽曲はワーグナーの影響を受けているとされます。
〇7回のイギリス演奏旅行
1884年3月ドボルザークはイギリスからの招聘を受け、ロンドンのセント・ジェームズ・ホールやロイヤル・アルバートホールで行われた演奏会で「スターバト・マーテル」やスラヴ舞曲、序曲などで成功を収め、8月には2回目のイギリス演奏旅行を行います。当時のイギリスは世界中に植民地をもつ大英帝国として繁栄を極め、海外からの音楽家の受け入れを行っており、ドボルザークは1891年まで7回のイギリスへの演奏旅行を行い、1889年には交響曲第8番ト長調を作曲し、ベルリンのジムロック社から出版しようとしますが、ブラームスに比べドボルザークの評価は低く、提示された作曲料はブラームスの交響曲の1万5000マルク(約3000万円、2000円/マルクとして)に比べ1/15のわずか1000マルク(200万円)であり、交響曲の出来に自信を持っていたドボルザークはこの交響曲をロンドンのノヴェロ社から出版したためこの交響曲は「イギリス」の名が付いています。
〇ニューヨーク・ナショナル音楽院への赴任と新世界交響曲
ヨーロッパで名声を得るようになったドボルザークは1891年プラハ音楽大学の教授に迎えられ、さらに翌年の1892年にはアメリカのニューヨーク・ナショナル音楽院の院長に招聘され、家族とともにアメリカへ渡ります。アメリカに渡ったドボルザークは交響曲作曲史における名曲交響曲第9番ホ短調「新世界より」を作曲し、ニューヨークのカーネギーホールで初演し、大喝采を受けます。ドボルザークは2度にわたりアメリカに行っており、最初の訪問では妻と6人の子供が一緒でしたが、2度目の訪問では帯同した家族は子供1人のみで家族のいない淋しさを味わったようで、1895年にプラハへ帰ると再度の渡米の要請を辞退し、家族とともに静かな晩年を過ごしたようです。ドボルザークはアメリカで新世界交響曲の他に、弦楽四重奏曲ヘ長調「アメリカ」、チェロ協奏曲ロ短調という傑作を残し、プラハへ帰ると歌劇「ルサルカ」を完成させ、60歳の1901年にはプラハ音楽院の院長に就任しています。
【音楽史年表より】
1841年9/8、ドボルザーク(0)
アントニン・ドボルザーク、北ボヘミアのネラホセヴェスに生まれる。ネラホセヴェスはプラハの北約20kmの町で、父フランティシェクは宿屋と肉屋を営んでいた。父は歌もうまく、バイオリンとツィターを奏でるほどの無類の音楽好きであった。母アンナの祖父はこの地の君主であるロプコヴィツ伯爵家で執事をつとめ、アンナもまた結婚するまでの間、伯爵のお城に仕えていた。(1)
1878年8/22作曲、ドボルザーク(36)、管弦楽のためのスラヴ舞曲集第1集Op.46、B83
ベルリンのジムロック社は早速出版し、ドボルザークは報酬として300マルクを受け取る。舞曲集は絶賛され、早足で世界を駆け巡ることになる。後の第2集ではドボルザークの報酬は3000マルクに跳ね上がった。(1)
1882年11/5全曲初演、スメタナ(58)、交響詩「わが祖国」全6曲
全6曲を通しての初演がプラハで行われる。この連作交響詩は1874年10月にまったく耳が聞こえなくなったスメタナによって、1879年までに作曲される。この「わが祖国」全6曲はスメタナの命日に開催されるプラハの春と呼ばれる音楽祭の初日の5/12に毎年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏されている。(2)
1889年11/8作曲、ドボルザーク(48)、交響曲第8番ト長調「イギリス」Op.88、B163
作曲を完成する。初演は翌年90年2/2プラハで行われる。(1)
出版にあたりドボルザークは出版社のジムロックと口論し、イギリスのノヴェロ社から出版されたため、「イギリス交響曲」と呼ばれている。この作品はボヘミアの自然と素朴な民衆の声から発したものであり、まさにチェコ音楽の極致を表している。(2)
ジムロック社はドボルザークに交響曲第8番の報酬として1000マルクを申し出て、1879年の契約をもとにもっと小さな作品を作曲してほしいと述べ、厚かましくもドボルザークの作品の売れ行きが良くないと言い放つ。ドボルザークはジムロックを無視して、交響曲第8番をロンドンのノヴェロ社に売り渡した。ノヴェロ社は1892年に出版し、スコアには「芸術と文化を奨励する皇帝フランツ・ヨーゼフのボヘミア・アカデミーへ、選定に感謝して」との献呈が付された。うれしいことにドボルザークは1889年暮れに妻とともにウィーンに行き、ハプスブルク皇帝フランツ・ヨーゼフに対してオーストリア3等鉄王冠賞を授与されたことへの感謝の気持ちを素直に表明する。1891年にはプラハのカレル大学から名誉哲学博士号が授与され、またケンブリッジ大学からも名誉音楽博士号が授けられた。(1)
1892年9/27、ドボルザーク(51)
ドボルザークの一行がニューヨークに到着する。ナショナル音楽院の秘書とチェコ・アメリカ使節団が歓迎のパーティで出迎える。10/1,ドボルザークはナショナル音楽院の新しい校長として、サーバー夫人に東マンハッタン17番街128イーストにある音楽院の教授陣に紹介され、歓迎される。ドボルザークは早速ナショナル音楽院での教育を開始する。彼は週に3回2時間の作曲の授業を担当し、週に2回音楽院のオーケストラを指揮した。さらにドボルザークは指揮者としても成功を収め、彼の指揮する音楽は各地で暖かい拍手に包まれた。(内藤久子・人と作品ドヴォルジャークより)(1)
1893年5/24作曲、ドボルザーク(51)、交響曲第9番ホ短調「新世界より」Op.95、B178
新世界交響曲を完成する。ドボルザークは4/14付の友人ルスへの手紙で「この作品は以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である」と述べている。第2楽章の主要主題はフォスターの故郷の人々やあるいは黒人霊歌のひとつ深い河のモティーフを連想させるものだという指摘がある。また、ドボルザークは1907年5月のブルゼニュ新聞に掲載された記事で「私は最後のシンフォニーのためにアメリカでモティーフを集めた。その中にはインディアンの歌も含まれている。だが、真実は伝えられていない・・・これらのモティーフは私個人のものであり、若干のものを私は携えている。それはチェコの音楽である」と述べ、同様に弟子で指揮者のネドバルに宛てた手紙にも「・・・私はただアメリカの国民的なメロディの精神で書こうとしただけである」と記している。(1)
6/23作曲、ドボルザーク(51)、弦楽四重奏曲第12番ヘ長調「アメリカ」Op.96、B179
ドボルザークはアイオワ州のスピルヴィルに到着した3日目の6/8に作曲に着手し、6/23に完成する。新しい作品が短い期間に完成に至ったことをドボルザークは大いに喜び、早速作曲家とアシスタントのコヴァジークとその家族によってカルテットが結成された。Vn:ドボルザーク、2Vn:コヴァジーク、Vla:コヴァジークの娘チェチリア、Vc:コヴァジークの息子ヨゼファ。ドボルザークはきわめて率直で自然を大いに楽しみ、スピルヴィルを訪問している間も、毎朝小さな果樹園を通り、川の土手に沿って歩く散歩を日課とし、鳥のさえずりを何より楽しんだ。そのような鳥のさえずりは、第3楽章のテーマを大いに鼓舞するものとなったようだ。翌年の1894年の正月1/1にボストンで公開初演される。(1)
12/16初演、ドボルザーク(52)、交響曲第9番ホ短調「新世界より」Op.95、B178
ニューヨークのカーネギーホールにて、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルハーモニーによって初演される。12/20付の手紙でドボルザークは初演について「カーネギーホールはニューヨークの一流の人たちで満席であった。私は座ったボックス席からさながら王様のように何度もお辞儀を繰り返さなければならなかった。それほど聴衆の拍手は続いたのだ。それはまさにウィーンのピエートロ・マスカーニを彷彿とさせるほどの盛況ぶりであった」と述べている。各楽章に循環形式を導入した交響曲第9番の真価はただちに音楽家たちの間で知られるところとなったが、彼らはアメリカの芸術作品ではなく、やはりボヘミアの芸術作品を聴いているのだという認識を一様に示している。(1)
1904年5/1、ドボルザーク(62)
アントニン・ドボルザーク、オーストリア=ハンガリー帝国プラハにて死去する。(2)
【参考文献】
1.内藤久子著、作曲家・人と作品ドヴォルジャーク(音楽之友社)
2.最新名曲解説全集(音楽之友社)
SEAラボラトリ・240615改訂
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