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音楽史年表記事編98.管弦楽の舞曲・行進曲創作史

 舞踊が発達したフランスでは宮廷バレエやオペラ・バレエなどのためのバレエ音楽のほか、フランス序曲にヨーロッパ各地の舞曲を組み入れたフランス組曲の様式が生まれます。セバスティアン・バッハはフランス組曲様式の4つの管弦楽組曲を作曲し、大規模な緩急緩のフランス風序曲に始まり、元来スペイン人が同地方に散在するムーア人の踊りを取り入れた舞曲であるサラバンド、フランスに生まれた古い舞曲であるブーレ、16世紀フランス南東部のドーフィネ山地に発生した中庸の速度の舞曲であるガヴォット、ポーランドに起源をもつ舞曲で16世紀末に宮廷に入り貴族の舞踏会での行進にはなくてはならない舞曲となったポロネーズ、古代イタリアから出た南欧の快速な舞曲であるジーグ、その他ロンドやメヌエット、エアーなどから構成される組曲としています。(渡辺護・アルヒーフLP解説より)
 ハプスブルク家のウィーンでは古くから舞踏文化が発達し、ハイドンやモーツァルトは舞踏会用のメヌエットやドイツ舞曲を作曲しています。ヨーロッパでは新年の1月6日の顕現節を迎えるとクリスマス・シーズンが終わり、顕現節から四旬節前のカーニバルまで冬の約1ヶ月半の間が舞踏会シーズンとなり、長く寒い冬を過ごすための楽しみとなるようです。モーツァルトは宮廷作曲家として、宮廷の舞踏会のためのドイツ舞曲やメヌエット、フォークダンスのようなカントリー舞曲であるコントルダンスなどを作曲しています。なお、モーツァルトは多くの行進曲を作曲していますが、これらは主にザルツブルク大学の卒業生が卒業を記念して演奏したカッサシオンやセレナードの入場、退場時に演奏されたもののようで、フランス宮廷では舞踏会の入場にポロネーズが演奏されたようですから、舞踏会の入場にも行進曲が演奏されたのでしょうか。ウィーンの舞踏会シーズンは2月中旬のオペラ劇場での舞踏会で終わり、春の復活祭まえのイエス・キリストの受難週に向けた祈りの四旬節を迎え、この時期はオペラなどの華美な催しは控えられたとされます。
 1830年代にはウィーンのランナーによってウィンナーワルツやポルカが作曲されるようになり、さらにヨハン・シュトラウス1世、ヨハン・シュトラウス2世、ヨーゼフ・シュトラウスなどによって多くのワルツやポルカの名曲が生まれます。これらの多くは学生の舞踏会や、企業主催の舞踏会のための作品であり、舞踏会が貴族から庶民階級まで広がっていったことが伺えます。

 一方、ブラームスは演奏会で演奏する目的でハンガリー舞曲を作曲し、ドボルザークもスラヴ舞曲を作曲しています。また、演奏会のための行進曲として、ベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」、ヨハン・シュトラウス1世の「ラデッキー行進曲」、エルガーの行進曲「威風堂々」が作曲され、北欧のグリーグもノルウェー舞曲や行進曲を残しています。

【音楽史年表より】
1787年12/7、モーツァルト(31)
皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトをグルックの後任として、年俸800フローリン(約800万円)で宮廷作曲家に任命する。グルックは年俸2000フローリンで宮廷委嘱のオペラも作曲していたが、モーツァルトには舞曲を中心とした作曲が委嘱される。(1)
1788年1/23初演、モーツァルト(31)、コントルダンス「戦闘」K.535
軍楽調は当時大流行していた。トルコ行進曲の部分では低弦は弓の背で弦を打つ奏法(コル・レーニョ)を使う。(1)
1840年1/16初演、ランナー(38)、ワルツ「宮廷舞踏会」Op.161
ウィーン宮廷大レトゥーデンザールにて初演される。30年代後半からランナーの人気はその絶頂に達し、1840年ランナーは宮廷楽団長を授けられ、深紅の美しい礼服で大舞踏会場に登場し、その際にこのワルツを初演した。(2)
1848年8/31初演、ヨハン・シュトラウス1世(44)、ラデッキー行進曲Op.228
ヴァッサー・グラシにおけるラデッキー将軍凱旋祝賀会で初演される。ラデッキー将軍は北部イタリアの分離独立を鎮圧した勇将で、その凱旋祝賀会のために作曲される。ヨハン・シュトラウス1世はウィーン市民防衛軍第1連隊の軍楽隊長でもあった。(2)
1860年2/14初演、ヨハン・シュトラウス2世(34)、ワルツ「加速度」Op.234
ゾフィエンザールにおけるウィーン大学工学部学生舞踏会で初演される。初演の前日、やっと客が帰ったあとのがらんとしたゾフィエンザールの舞踏会場で、手近のメニューの裏に走り書きでスケッチされた。(2)
1867年2/18初演、ヨハン・シュトラウス2世(41)、ワルツ「美しき青きドナウ」(合唱付き稿)Op.314
ウィーンの男声合唱協会によるディアナ・ザールのコンサートで初演される。指揮は同合唱団のヴァインヴルム。1866年オーストリアは生まれつつあった新しいドイツ連邦の指導権をプロシアと争い、背後からはイタリア軍の攻撃を受けるという不利な戦いで完全に敗れ去った。ウィーンの栄光はずたずたに引き裂かれ、人々は悲しみと不安のうちに暗い気持ちで1867年の春を迎えた。「国破れて山河在り」、シュトラウスはその無限に変わらない自然の美しさに目を向けた。世の中の喧騒と混乱をよそに、とうとうと流れ続けるドナウ河、そこに彼はウィーンの心を発見した。(2)
1869年3/13初演、ヨーゼフ・シュトラウス(41)、鍛冶屋のポルカOp.269
ブリューメンザールにおける花火大会で初演される。金庫メーカーのヴェルトハイム商会の2万個製造記念に催した花火大会に際して作曲され、ヴェルトハイム商会に献呈される。同年10月にシュピナ社から出版される。(2)
1878年8/22出版、ドボルザーク(36)、管弦楽のためのスラヴ舞曲集第1集Op.46、B83
ベルリンのジムロック社は早速出版し、ドボルザークは報酬として300マルクを受け取る。舞曲集は絶賛され、早足で世界を駆け巡ることになる。後の第2集ではドボルザークの報酬は3000マルクに跳ね上がった。(3)
1901年10/19初演、エルガー(44)、管弦楽のための行進曲「威風堂々」第1番Op.39の1
リバプールにおいてロードウォルド指揮リバプール・オーケストラ・ソサイエティにより初演される。数日を経たロンドン初演では、熱狂した聴衆のためにこの曲は都合3回演奏される。時の国王エドワード7世はエルガーに中間部に歌詞を付けることを勧めた。エルガーはエドワード7世の戴冠式を祝う戴冠式頌歌Op.77の第7曲終曲に「希望と栄光の国」としてこの旋律を用い、この曲はイギリスの国歌に次ぐ国民的愛唱歌となった。(2)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.最新名曲解説全集(音楽之友社)
3.内藤久子著・作曲家・人と作品シリーズ ドヴォルジャーク(音楽之友社)

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