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音楽史・記事編125.ウィーン・ベートーヴェン記念館(パスクアラティハウス)

 ベートーヴェンは1804年10月から08年6月まで、また1810年4月から15年春までの間、メルケルバスタイのパスクアラティ男爵所有の住居に居住し、ベートーヴェン中期の傑作を作曲しています。ベートーヴェンはこの住居をウィーンの拠点とし、たびたびバーデンやメードリンクなどに避暑などに出かけていたようです。

〇パスクアラティハウスにおける創作
 メルケルバスタイのパスクアラティハウスはベートーヴェンがウィーンで最も長く居住した家で今も現存し、ウィーンのベートーヴェン記念館となっています。ベートーヴェンは中期の傑作の森といわれるこの時期にこの住居でピアノ・ソナタ第23番ヘ短調「熱情」Op.57、歌劇「フィデリオ(レオノーレ、あるいは夫婦愛の勝利)」第2稿Op.72、3曲のラズモフスキー弦楽四重奏曲Op.59、バイオリン協奏曲ニ長調Op.61、「コリオラン」序曲Op.62、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67、弦楽四重奏曲第11番ヘ短調「セリオーソ」Op.95などの名曲を作曲しています。

〇ベッティーナ・ブレンターノの訪問

 1810年5/25、フランクフルトのベッティーナ・ブレンターノがパスクアラティハウス4階のベートーヴェンを訪問しました。ベッティーナの母親マクシミリアーネはゲーテの書簡小説「若きウェルテルの悩み」のロッテのモデルとなった人であり、異母兄のフランツ・ブレンターノは小説の最後でウェルテルが拳銃自殺した折にウェルテルにしがみついて離れなかったロッテの長男のモデルになった人と見られます。ベッティーナの父はイタリア出身のフランクフルトの豪商であり大家族で住んでいました。その長男フランツに嫁いだのがオーストリア・ウィーンの教養豊かな美人のアントーニアでした。アントーニアはブレンターノ家の大家族を取り仕切る家長の嫁の立場で心身症を病み、ウィーンの実家に帰っており、ベッティーナはその実家を訪れていたのでした。ベッティーナはドイツロマン派の女預言者と呼ばれる才女で、ベートーヴェンは当時作曲していたゲーテの「エグモント」中のミニヨンそっくりのベッティーナに魅せられ、たちまち意気投合します。そして、一緒にビルゲンシュトック邸を訪問し、ピアノ演奏などを行ったとされ、これが後の不滅の恋人となるアントーニア・ブレンターノとの出会いとなります。

〇ベートーヴェンとテレーゼ・マルファッティ
 ベッティーナ・ブレンターノがベートーヴェンを訪問した時、ベートーヴェンは主治医のマルファッティ博士の姪のテレーゼ・マルファッティとの結婚話が進んでいました。ベートーヴェンはルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵から合わせて4000グルデンの高額の年金を受け取れるようになったことから、友人のグライヒェンシュタイン男爵に嫁探しを依頼し、グライヒェンシュタインが結婚したマルファッティ家の令嬢の姉を紹介されます。しかし、この結婚話はテレーゼ・マルファッティの両親によって破談します。おそらく、このような時期にベートーヴェンが毎日のように若い娘(ベッティーナ)と出歩いていたことが、ウィーンで噂になったためと見られます。ベートーヴェンはその4年後にもまだ未婚だったテレーゼと本の貸し借りを行っていたことが分かっており(4)、ベートーヴェンの才気あふれる若い女性と芸術論を語り合いたいという軽率な行動がこのような結果を招いたといえるかもしれません。なお、ベートーヴェンはテレーゼ・マルファッティのために「エリーゼのために」WoO59を作曲したといわれていますが、このピアノの名品はテレーゼではなく、コピッツの研究論文では「フィデリオ」でフロレスタンを演じたテノール歌手レッケルの妹のソプラノ歌手エリーザベトではないかとされています。エリーザベトは愛称が「エリーゼ」であり、後にフンメルの夫人となり、ベートーヴェンが亡くなる2週間前にフンメルとともに病床のベートーヴェンを見舞っています。

【音楽史年表より】
1804年10月頃、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェン、ウィーンへ戻る。未亡人となっていたヨゼフィーネ・ダイムと再会し、ピアノ指導を通じて次第に親密になる。(1)
1804年10月中、ベートーヴェン(33)
ベートーヴェン、メルケルバスタイのパスクアラティ男爵所有の、見晴らしの良い4階に移る。(2)
1805年作曲、ベートーヴェン(34)、ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調「熱情」Op.57
1807年2月の出版にあたりヨゼフィーネの兄フランツ・フォン・ブルンスヴィク伯爵に献呈される。この熱情ソナタは1804年から05年までの間の作曲とされる。自筆譜はパリ音楽院に所蔵されている。その自筆譜は全体に水に濡れたシミ跡がついており、従来の説によれば、1806年秋にトロッパウ近郊グレーツにあるリヒノフスキー侯爵邸を訪れた帰途、雨に濡れたというものであり、これは事実のようだが、そのときに完成直前の熱情ソナタを持っていたということにはならない。自筆譜の終楽章には多くの訂正や書き直しがあり、すでに完成していたものを改訂するためにこの頃持ち歩いていたと考えられる。(1)
1805年6月下旬~9月、ベートーヴェン(34)
ベートーヴェン、ウィーン郊外のヘッツェンドルフに滞在する。その間、しばしばウィーン市内に戻ることもあった。また、この村に住んでいるヨゼフィーネの家を訪ねることもあった。近隣のシェーンブルン宮殿の庭園にある木陰のテーブルで何時間も作曲に没頭しているベートーヴェンの姿がしばしば見られた。(2)
11/20初演、ベートーヴェン(34)、歌劇「フィデリオ(レオノーレ、あるいは夫婦愛の勝利)」第1稿Op.72
ウィーンのアン・デア・ヴィーン劇場で、ベートーヴェン自身の指揮で初演される。ウィーンのオペラの聴衆は富裕な市民と貴族であったが、そのほとんどが疎開してしまい、今やフランス軍が駐留する異様な情勢の中で「フィデリオ」は初演日を迎える。聴衆は数人のベートーヴェンの友人を別とすれば、ほとんどが駐留軍のフランス兵士であった。原作はブイイのフランス語であるとはいえ、このオペラはドイツ語に翻訳されたものであり、劇の内容を理解し楽しめるフランス兵はほとんどいなかった。序曲は「レオノーレ」第2番が演奏される。(3)
1806年3/29初演、ベートーヴェン(35)、歌劇「フィデリオ(レオノーレ、あるいは夫婦愛の勝利)」第2稿Op.72
ウィーンのアン・デア・ヴィーン劇場で第2稿がイグナツ・ザイフリートの指揮で初演される。序曲にはレオノーレ第3番が用いられる。台本の改訂はベートーヴェンのボン時代からの友人シュテファン・フォン・ブロイニングによって行われた。(1)
ベートーヴェンは興行主のブラウン男爵と決裂し、第2稿の公演は3回で打ち切りとなる。(6)
7月初め作曲、ベートーヴェン(35)、弦楽四重奏曲第7番ヘ長調(ラズモフスキー四重奏曲第1番)Op.59-1
1806年4月にスケッチが始まり、総譜にイタリア語で「5月26日着手」と書き込まれている。7月初めには完成する。ロシアのウィーン大使、アンドレアス・ラズモフスキー伯爵に献呈される。ラズモフスキー伯爵は1792年以来20年間ウィーンに駐在した。(1)
10月末、ベートーヴェン(35)
ベートーヴェン、チェコのシレジアのリヒノフスキー侯爵の館であるグレーツ城でリヒノフスキー侯爵と対立し、「熱情ソナタ」などの楽譜を携えて、雨の中単身ウィーンへ戻る。(3)
11月作曲、ベートーヴェン(35)、弦楽四重奏曲第8番ホ短調(ラズモフスキー四重奏曲第2番)Op.59-2
1806年夏に作曲が開始され、11月に完成する。アンドレアス・ラズモフスキー伯爵に献呈される。自筆譜とスケッチについた雨滴のシミが、作曲進行状況を示す証拠となる。(1)
11月作曲、ベートーヴェン(35)、弦楽四重奏曲第9番ハ長調(ラズモフスキー四重奏曲第3番)Op.59-3
1806年夏に作曲が開始され、11月に完成する。難解と考えられていたラズモフスキー四重奏曲の中で第3番ハ長調はいち早く人気を獲得した。第2楽章はこの作品の中でもっとも「ロシア風」であり、その異国的な曲調が人気を博した1つの原因であろう。(1)
12/23作曲、ベートーヴェン(36)、バイオリン協奏曲ニ長調Op.61
この協奏曲は初演者のフランツ・クレメントの依頼で作曲されたものであることは、自筆譜の上にベートーヴェンの手で記された「お情けのためにクレメントのために」という献呈の辞からわかる。1806年下旬に作曲に取りかかり、わずか5週間の間に完成されたと考えられる。スコアの下にさまざまなスケッチが書き込まれている。曲は1808年にボン時代からの親友シュテファン・フォン・ブロイニングの結婚のお祝いとして献呈される。(1)
1807年1月頃作曲、悲劇「コリオラン」序曲Op.62
ウィーンの宮廷秘書官で、詩人で劇作家であったハインリヒ・フォン・コリンは1802年にローマ神話の英雄コリオラヌス(コリオラン)を扱った悲劇を書き下ろし、この年の11月24日に宮廷劇場で初演し、大きな成功を博していた。大きな成功をおさめたコリンの劇が音楽もなく、1805年までしばしば上演を繰り返しているのを見て、ベートーヴェンはこの舞台に序曲をつけることを思いついた。曲はハインリヒ・フォン・コリンに献呈される。(1)
1808年3月頃~夏までに作曲、ベートーヴェン(37)、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67
1803年から5年間の推敲を重ね、主に1807年に作曲を行う。いわゆる運命動機による主題は、ソナタ形式主要主題としては前代未聞の音型である。しかし、革新性はわずか4音によるこの主題にあるのではなく、この動機を後続するすべての楽章に用いたことにある。全楽章の有機的統一と一貫性こそがこの作品のもつ最大の特徴である。(1)
動機の用法、楽章間の連関の他、曲全体のドラマチックな設計にも革新性が見られる。フィナーレに至るクレッシェンドとフィナーレの勝利の表現に象徴的にあらわれているのは、この作品がフィナーレに向けて、フィナーレを到達点として構想されているということである。抽象的だが、暗から明へ、苦悩や闘争を通して勝利へというイメージが紛れもなく存在する。ハ短調から祝祭の調であるハ長調へという異例の調設計からもそれは歴然としている。(土田英三郎・ベートーヴェン交響曲第5番より)
1810年初め、ベートーヴェン(39)
ベートーヴェンは友人のグライヒェンシュタイン男爵に手紙で妻探しを依頼するが、気のいい若い男爵は、自分が親しくしていたマルファッティ家にベートーヴェンを紹介する。(3)
4/27、ベートーヴェン(39)、ピアノのためのバガテル・イ短調「エリーゼのために」WoO59
この曲はテレーゼ・マルファッティのために書かれたものだと長い間信じられてきた。楽譜発見者のルートヴィヒ・ノールが手稿の余白にしるされた「テレーゼのために」を「エリーゼのために」と読み誤ったと言われてきた。(1)
しかし、最近の研究では「エリーゼ」が歌劇「フィデリオ」初演でフロレスタンを演じたテノール歌手レッケルの妹でエリーゼと愛称されていたエリーザベトであると言われる(2009.5コピッツの論文)。エリーザベトはソプラノ歌手でのちのフンメル夫人となる。(3)
5/2、ベートーヴェン(39)
ベートーヴェン、故郷の旧友ヴェーゲラーへの手紙でテレーゼ・マルファッティとの結婚に必要な洗礼証明書の送付を依頼する。(3)
5/8、ベートーヴェン(39)
ベッティーナ・ブレンターノが異母兄フランツの妻アントーニアのウィーンの実家である故ビルゲンシュトック邸を訪れる。ベッティーナはこの家の音楽会で今まで聞いたこともないピアノ曲に魂をうばわれてしまう。その曲はベートーヴェンの月光ソナタであったという。こんな曲をつくる人物はいったいどんな作曲家なのか、彼女は人が止めるのも聞かず、そのベートーヴェンなる人物にどうしても会おうと決心する。(4)(3)
5/25頃、ベートーヴェン(39)
ベッティーナ・ブレンターノがベートーヴェンを訪問する。ベッティーナがベートーヴェンを訪ね当てたのは、メルケルバスタイの上に建つパスクアラティハウスの4階だった。ベートーヴェンはベッティーナの期待を裏切らなかった。彼の内面から放射される天才の精気が彼女に全世界を忘れさせたのだった。ベートーヴェンもまた突然現れた情熱的な黒い瞳の娘を前にして不思議な感銘を受けたに違いない。その頃、彼はしきりにゲーテの詩を作曲し、ちょうどその時はエグモント序曲を手がけていたのだが、そこにいるのはゲーテの作中人物ミニヨンそっくりの少女だった。会ったその日にベートーヴェンはベッティーナを彼女の宿泊先であるビルゲンシュトック邸に送って行く。その日はそこで昼食会が開かれていて、集まった人々はベッティーナがあの変人のベートーヴェンに腕をとられて現れたのに目をみはった。誰よりも驚いたのはベッティーナの兄の妻アントーニアだったかもしれない。上機嫌のベートーヴェンはその日は夜の10時までそこにいた。意気投合した二人は以後毎日のように会った。夜になるとベッティーナは昼間聞いたベートーヴェンの話を文章にして、次回にそれを本人に見せて訂正してもらった。そしてその内容を手紙でゲーテに知らせたのだった。のちにベッティーナの「ゲーテとある子どもとの往復書簡」に収録されたその手紙は、音楽に対するベートーヴェンの基本理念や、シンフォニーを作曲するときの創造過程を知ることのできる貴重な資料となっている。(4)、(3)
1811年前半作曲、ベートーヴェン(39、40)、弦楽四重奏曲第11番ヘ短調「セリオーソ」Op.95
現在ウィーンの国立博物館に保存されている草稿には「クァルテット・セリオーソ、1810年10月、友人L.v.ベートーヴェンよりズメスカル氏に捧げられ10月に書かれる」と記されている。ニコラウス・ズメスカル・フォン・ドマノヴェッツ男爵はハンガリー出身のオーストリア駐在秘書官で後に儀典長官を務める。チェロ奏者で、作曲も行い、ウィーンで若いベートーヴェンと知り合ってからは親交を結び、生涯の盟友となる。この四重奏曲は1810年夏に作曲が開始され、1811年前半に完成されたとみられる。1814年に演奏会のために自筆譜をつくるが、この時に改訂が行われる。作品は極めて先鋭的な楽想と書法が短く凝縮されたような実験的であるが、平明なOp.74ハープ四重奏曲と対をなすと見ることができる。ベートーヴェンの純粋に内発的な創作意欲から生まれたセリオーソ四重奏曲は全く独創的な傑作となり、この曲の妥協のない密度の高さは時代に先んじて聴衆に過大な緊張を強いるものであり、後期四重奏曲の先駆けとなっている。(5)(1)(3)

【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.平野昭著、作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
3.青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)
4.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン不滅の恋人の探求(平凡社)
5.作曲家別名曲解説ライブラリー・ベートーヴェン(音楽之友社)
6.小松雄一郎編訳、ベートーヴェンの手紙(岩波書店)

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