エーテルの水面 第四話

霧島が意識を取り戻した時、彼は薄暗い天井に見下ろされていた。彼の頭の回転はそこまで速くないが、それでも誰かに答えを教えられるよりは早く、その状況を理解した。
懲罰房の寝台、その上で自分は手を重ねて寝ていた。手が組まされていたら、葬式の遺体になるところだった。
閉じ込められているという状況に対して、少しばかり呑気な考えだと思わないでもない。しかし、今の自分に焦るようなことはない、そのはずだ。
仮に何かしらの処分が下るとして、意識の無いうちに行われはしない。今はさしずめ仮処分のさらに前、つまり取り敢えず拘束しておこうという状況だ。
暗闇にもなりきれない明るさの中で、灰色のコンクリートが見える。既に起こした体で壁に触れる。いささか寒過ぎるくらいの冷たさが肌を刺す。無機質で冷淡な部屋は、身に下る処分の重さに同じだと言う者がいた。なるほど確かに冷たい。
光の射し込む格子付き扉に向かう。光に寄せられていくのは人間も虫も同じだなと思う。
「お、起きたか」
看守、いや見張りと言うべきか、が足音に気付いて中を覗き込む。若干だが扉から距離を空けている。霧島はブーツの音をうるさく響かない程度にたてながら、扉のそばに立つ。
「ここはどこ……いや違うな。俺はどれくらい寝ていた?」
寝台から起きた時に履いたブーツを慣らしながら、相手の答えられそうな質問を口にしてみる。
「このしみったれたスイートルームに運ばれてから、二時間と半分だな、だいたい」
見張りの男は特に渋る様子も無く、すんなりと答えを寄越す。
霧島から見て左にも見張りが一人いる。どうやら二人がかりで見張るだけの必要があるらしい。ただ頭を冷やすだけなら見張りなどつかない。それだけに、自分のしたことは重要なものとして扱われているのがひしひしと感じる。
「体調とか大丈夫か?」
右の男が心配してくる。
特別重要視していなかったが、体が気だるい。顕著な症状こそ無いものの、やはり気のせいではない。程度としては、無視して普通の動きができるので、重くはないはずだ。
「いや、平気だ。それより、お前達は俺がここに入れられた理由とか、知ってるのか?」
返ってくる見込みは無いが、他に聞くことも無いだろう。
二人の男は少し顔を見合わせる。
「ああ……うん、まあ大まかにならな」
答えるのはやはり右の男。左の男は口をきくつもりがないらしい。もっとも責任問題がどうのと問われかねない以上、霧島自身も見張りとして話をすることは無いだろう。
「お前さん、変身したんだってな。適性もないのに」
「おい!」
グレーゾーンより黒い話題に、左の男はやめさせようとする。
「これくらいのことは良いだろ、別に問題はないさ」
右の男は若干食ってかかるように制止を振り切る。左の男は自分は無関係だとばかりに顔を反らし、置物のように正面を向いて動かない。
「ん、悪い。こいつは面倒事が嫌いでな、ちょっと神経質なんだ」
妙に慣れたような口調で男が詫びる。何かしら親近感でも感じるようなものが自分にあったのだろうか。
「別に構わないさ。鉄格子の向こうから飛んでくる言葉は無視されるのが普通だろう?」
「そうさな。確かにやらかした連中ならそうだけどな。でもお前は違う」
房の中に向きながらまじまじとこちらを見やる。
「勝手に装置を使って変身した。そんでここに入れられた。お偉いさんからしたら大問題だ。けど、それで助かった人が間違いなくいる」
元気づけるような、勇気づけるような力強さで彼は断言する。少なくともここに一人お前の味方がいるのだと。
「ありがとう……」
礼を言う。ただそれ以上のことを何と言えば良いか分からない。きっと何か言うべきことがあるのだろう。それでも……
(街はあの後どうなったんだ……)
うつむき加減に寝台に戻る。どさっと力が抜けたように腰掛ける。この部屋は疲れをとるには辛気臭すぎる。
(流石に嫌だな、こういう場所は……)
この先のことを考えれば気が滅入るばかりだ。そんな状況でも休息は絶対のもの。体のダルさを拭う為にも、霧島は寝台で眠り始めた。
微睡むよりも早く、滑り込むよりも滑らかに深く浅い眠りの中へ。


二度目に霧島がコンクリートの天井を見た時、彼は聴覚と直感に刺激を伴い、起き上がった。扉の開く音、乾いた靴が通路を蹴る音、姿勢を正す衣擦れの音。そして思ったよりも遅くやって来た訪問者。
「おや、起こすまでもなかったかな。霧島真也三尉」
制服姿の男が鉄格子の向こうから話しかけてきた。その声と所作に感情は無く、さながら職務に魂まで捧げた人形だった。
「はい、起きています。」
男は姿勢を正したまま話を続ける。
「今回の君の行動に関して、査問会を開くことになった。そして直接君の口から話を聴く準備ができた。同行してもらおう」
口調には有無を言わせる意図はまったく無く、そしてまた傲慢さも無かった。房の冷ややかさが増したように感じるのは気のせいだろう。
「了解しました」
扉の手前まで歩く。足どりは寝る前よりは軽いが、普段の自分と比べれば重い。体調のせいもあるが、何より気が重い。重い重いだらけで気分は川に投げ込まれた石のようだ。どうか溺れ死なないでくれと思わずにはいられない。
通路に出て歩き出す。男についていく。二人の見張りが脇を埋め、挟み込む形だ。もし逃げ出すなら後ろへ走ることになるだろう。彼らの拳銃に撃たれなければの話だが。
通路を進み、房が並ぶ光景から離れていく。そして通路が切り替わったところで、後ろにもう一人の頼もしい見張りがつく。いくら逃げる気がないとは言え、こうもがっちりと周りを固められれば気が滅入る。
懲罰房が名残惜しくなるような時が来るとは思わなかった。


査問会で聞かれたことは主に二つ。作戦中に何が起きたかと変身装置を使用した動機であった。
前者については単純に覚えていることを答えるだけだった。受け答えた内容と他の証言を照らし合わせて話は進み、特に矛盾点も無く、流れは速かった。
査問官の中にはそのスムーズさが不服そうな者も居たが、素直に答えている身からしたらとんでもなく嫌な態度だ。霧島自身がそのような嫌悪を表さなかったのは賢明な判断だったろう。ただでさえ疑り深い目で見られているのだ、損なって良い心証など無い。
そして事実確認が完了した後、変身というものへの霧島の態度や思想などが問われた。まるでそこにこの世の真理があるかのように。
これまでに変身者と協力してきた中で、その力に憧れたことはあったか。
この質問に霧島は困らされた。霧島本人としては憧れた覚えはない。そしてこの質問に問題点を感じた。
「質問の意図が曖昧なのでお答えできません」
この言葉を口にするのには相当な覚悟が必要だった。査問で口答えなどすれば反抗の意思ありと見なされてもおかしくない。実際に査問官達の訝るような視線は強くなった。
その危険を犯してでも霧島が避けたかったもの。それは解釈の余地を多分に残した返答。そのような答え方をすれば、どのように解釈され、どのように処分されるか分かったものではない。
たとえ悪く解釈されなかったとしても、自分の意思とかけ離れた場所に自分の足場を持っていくことは納得がいかない。
仕方なくなのか当然の流れなのか霧島に判断はつかなかったが、質問の形は変わった。
変身者の能力をどのように評価しているか。
霧島は特に逡巡することなく答える。
「対フォーリナー戦において要となる貴重な戦力です」
思想的背景などを一切挟まない現実のみの答え。その希少さへの理解も示したつもりだった。
相手方の反応は薄かった。いくら一般的な返答だったとはいえ、もう少し興味深そうに聞き入ってほしいものだ。特に自分の爪を眺める輩が現れた時は睨め付けたくなるのを我慢していた。
変身者の力またはその適性を欲しいと思ったことはあったか。
「彼ら変身者と比較して自分の非力さを感じることはありました。しかし自分に出来ることと出来ないことの分別はついているつもりです」
首を少し下げ、言葉を選びながら、下手なりに選びながらはっきりと告げる。
「私は今まで自分に出来ることに全力で取り組みました。そしてそれ以上のことを望んだことはありません」
言い切ってから胸を撫で下ろしたくなる。上手く言えたとは思えないが、これで十分自分の言うべきことを言っただろう。
その時には少しずつ査問官の関心も強まっていた。
ならばなぜお前は今回の対応を選んだのか。
なぜと言われても困る。ただ必死だったあの時のことなど。
査問官にとって最大の山場だったのだろう。その場の空気も彼らの動作もすべてが険しさを増していた。
霧島はあの時の自分の状況と判断を必死に思い返していた。何かしら問題のある発言を勢いでしないように。しかし、あまりにも時間をかければかえって作り話と疑われるかもしれない。彼に余裕は無かった。砂時計は上が重い方が好ましい。
「先程もお話した通り、あの時点で私は他にフォーリナーを止められる戦力を認めることが出来ませんでした。実際はどうであれ、私以外に戦える者はいなかった、だから可能性のあるものに賭けました」
苦し気な表情を覗かせそうになりながら答える。
それが変身装置だったと。
「はい。適性がないことは分かっていました。しかしたった一人の人間がフォーリナーに立ち向かう方法を、私はそれ以外に知りませんでした」
過ちを悔いる囚人のように苦々しい顔が訴える。歪んだというほど酷くはないが、それでも平然とは言い難い。
管轄外の装備の無断使用、ましてや遺体から奪うことに抵抗は無かったのか。
底意地の悪い質問が正面からぶつけられる。
「奪うって!私はそんなつもりはありませんでした!ただ必要だったから、それしかないと感じたから手を伸ばしただけです!」
瞬間的な昂りは軽く理性を撫で潰していった。次の瞬間に敵意の眼差しを向けなかったのは、霧島に自制心が残っている唯一の証拠だった。
握り込んだ拳を緩める。相手はこちらに対立していると思わなければいけない。そんな気がしていたが、ここまで挑発的な言い方をするなら、それが事実なのだろう。
姿勢も声音も改めて霧島は言った。
「私は件のフォーリナーが避難所へ向かうのを止めるため、多くの犠牲を出さないために一人で戦える力を必要としました。そして目に写った装置に望みを託しました」
少し大きめに息を整える。
「確信も何もありませんでした。私はあの時自分にしか出来ないことをしただけだと、そう思っています」
問題のない発言だとは言い切れないが、霧島にはこれ以上何も確かなことは言えない。
査問官も霧島の口調からすべてを聞き出したと一旦は区切りを付けた。
この日の査問は終わった。懲罰房に戻る時も、また必要以上のエスコートを受けた。
その後は食事以外に特別誰かが訪れることはなかった。食事は旨くも不味くもないもので固められ、肉体的にも精神的にも疲弊した身には相当堪えた。