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【短編小説】 裕子は宝石箱の中にいる


急な夕立に遭い、スクールバッグを傘にして二人は笑いながら裕子の通う二階のバレエ教室に駆け込んだ。レッスンの無い日の教室はがらんとしていて夏なのに肌寒い。
裕子は、  ねぇ独り占めだよ!  と言って咲の手を引いて中に入れる。裕子はおもむろにバーに足をかけストレッチを始めた。
ふぅーと息を吐きながらバーへ体を倒す。咲は少し柔らかい教室の床を足の裏で噛み締め裕子のストレッチを見ていた。
裕子は視線を感じ顔だけ咲の方向を向け、キキキッと笑った。
裕子はロッカーからバレエシューズを取り出し慣れた手つきで履きながら、 ねぇ、なんか踊ろうよ、咲ちゃんは今なんの練習してるんだっけ?  と言った。ロッカーから覗くトウシューズがキラリと光る。
咲は見よう見まねでバーに足をかけ、ふぅーと息を吐きながら前屈をした。そのまま、 オーロラ、 と答えた。
憧れは、羞恥心や後ろめたさよりも強かった。
裕子がスピーカーの再生ボタンを押すと、ハープの音が流れ出した。
手汗でバーはツルツルと滑り上手く掴めない。
裕子は 早く早く、と手を振り、咲は教室の中央に行った。
右に向かってアラベスクをして、手と足をパタパタと動かす。裕子の視線を感じないように少し下を向きながら、次は左に向かってアラベスクをする。
ホップステップ。
夢の中でも踊っていたのだから、振り付けだけは絶対に間違えなかった。
ホップステップ。
次にエシャッペ。
優雅な曲調に対して咲のステップはあまりに荒々しく豪快で、楽しそうだった。
裕子は咲のバリエーションをじっと見つめていた。すると裕子は咲に合わせて踊り出した。
裕子の踊りは繊細で軽やかで、鏡に映る二人はまるで同じものを踊っているようには見えない。
雨音はどんどんと強くなり、度々スピーカーから流れる音をかき消す。その度に二人でチャンチャッチャッと曲を口ずさみ、二人でクククッと笑った。
ターンをしながら足を横に振り上げると、同時に咲は大きな音を立ててずっこけた。
5秒の沈黙。
すると咲は大きな声で笑いだし、つられて裕子もガハハと笑う。
咲がふとロッカーを指さし、 裕子ちゃんのトウシューズ?  と聞いた。
裕子は座り込む咲の足の甲を触り、  新しく買ったんだけどどうも合わなくてね、咲ちゃんなら合うかも、 と言った。



次の日も裕子はバレエ教室を訪れレッスンを受けていた。雨音が無いと曲がよく教室に響き渡る。咲は外の階段からお母さんの宝石箱をこっそり覗くように教室を見つめていた。
先生のパンッパパンッという手拍子に合わせて生徒が一気に足を振り上げる。裕子の表情は昨日の表情とは変わって真剣に見える。バレエのレッスンは妄想の中よりもはるかに地道で淡々としていた。
休憩中、生徒たちは談笑しながらトウシューズを履いている。咲の視線に気づいたように裕子がドアの外を見た。
先生は手を叩き、生徒達はそそくさとバーにつく。外はすっかり暗くなっていた。
あら裕子ちゃん、トウシューズ合ってないんじゃないの。先生は裕子の元へ行き、もう少し幅が広いやつに買いかえたら、と言った。
オーロラ姫の曲がかかる。咲はしゃがみこみ、腕の中に顔を埋めながら曲を一緒に口ずさんだ。


レッスンが終わり、裕子は走って窓から外を見た。そこには一人ゆっくりと歩く咲がいた。

-いくよォ。

トウシューズは宙を舞い、トウシューズのリボンは風に抵抗して羽となった。
咲ちゃんにピッタリだと思うの!  裕子の声はよく響く。
咲は掴んだトウシューズを黙って握りしめ、下を向きながらそこから動かなかった。

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