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つくし摘みと僕

 日曜日の昼下がり、僕はこたつにすっぽり。窓から差し込むうららかな陽射しが、穏やかな春の到来を告げている。モンキチョウが視界の中をふわふわと飛び回っている。ひなたぼっこのような春の便り。モンキチョウの描く軌跡が視界いっぱいを黄色く埋めつくし、それから気まぐれにどこかへ飛び去っていき、消える。

 こたつというのは、いつぐらいの時期になったらしまうものなんだろう、と僕は思う。ゴールデンウィークの手前とかなんだろうか? それとも気温とかをみて決めるもの? わからない。けれどもいずれにせよ僕は、少なくとも今はまだ片づけるべきときではないということだけはわかる。少なくともこれだけは、僕は確信をもって言うことができる。春にこたつは必要。まだ肌寒い。というか、ぜんぜん普通に寒いから。

 心地いい春。山が笑い、風が光る春。黄色い残像のなかに、僕はつくしがぽつぽつと生えているのをみつける。地面から、空へと向かって伸びゆくつくし。すらりと高く、伸びゆくつくし。春。つくしの季節。ふたたび視界の中に、モンキチョウがふわりと舞い戻ってくる。

──つくし摘みに行こう、僕はそう思った。

***

 僕がまだ小さかった頃、あれはおそらく小学校の低学年くらいだっただろうが、近所につくし摘みに出かけたことがあった。僕と僕の兄と近所の子。3人で出かけていた。その当時、近所の田んぼのあぜ道や土手には、この時期になると、いたるところにつくしが生えていた。もちろん、つくし(というか、スギナ)の生命力は恐ろしいもので、わざわざあぜ道なんかへ遠征しなくとも、家の周りのそこらじゅうに「人の住むところにスギナあり」というくらいびっしりと生えていたわけだったが、生えているつくしの規模で言えば、あぜ道のつくしは、それでもやはり家の庭などとは比べ物にならないほど圧倒的な規模を誇っていた。その大部分は、今でこそ開発されて家が立てられてしまったが、当時は僕らだけでは決して摘みとりきれないほどの大量のつくしが、ほんとうにびっしりと一帯を埋めつくしていたのである。

 僕らは無心になって、むさぼるようにつくしを摘みとっていった。けれどもつくしの大群の甚だしいことに比べれば、僕らの摘みとる量はずいぶんと甘ちょろいものだった。摘みとっても摘みとってもまったく摘みとった心地がしないほどの広大なつくしの大群が、そこにはあった。

 ともかく僕らは、嬉々としてつくし摘みに励んでいた。無我夢中につくしを摘みとっていく僕らは、なんというか、金脈の存在が保証されたゴールドラッシュみたいなとびきり晴れやかな気分だったと思う。摘みとったつくしは両手に抱えて家に持ち帰り、おひたしやきんぴらにしてみんなで食べた。つくし料理は、あるときは自分たちで作ったし、またあるときは「はかま」をとるだけとって、あとは母にお願いするということもあった。思えば一度、母が創作的にベーコンとつくしのパスタを作ってくれたことがあった。おひたしやきんぴらは当時の僕にとってはすでに定番メニューになっていて、いささかマンネリ化していたところがあったから、僕の中ではベーコンつくしパスタは、よく知るつくしの新たな顔を発見してしまったという感動があった。

 いずれにせよ、つくし料理を味わうときはみんなで揃ってだった。つくしは口に入れると独特の苦味がして、それはまさしく春の味だった。僕らはみんな例外なくそんな春の味の虜になっていて、春の味覚を堪能しながら至福のひとときを過ごしたのだった。みんなでつくし料理を囲むことは、その当時の僕らにとって、なによりの幸せだった。

***

 僕はハサミとトレーを持って裏庭へと向かう。懐かしのつくし摘み。あの頃を思い出す。瞬きをするたびにモンキチョウの黄色くにじんだ残像がじんわりと溶けていく。

 裏庭へと出ると、砂利の隙間から突き抜けたつくしがまっすぐすらりと伸びているのが見える。さっそく、つくしを摘んでいくとしよう。が、明らかに数が少ない。ぽつぽつ。あまりに少なすぎる。つくしたちは、マクロな視点に立って見れば、まったく過疎的な生え方をしていて、ぽつぽつ以外の形容はありえないんじゃないかというくらい究極的に乏しい数しか生えていない。僕が仮にこれらをぜんぶ摘みとったところで、僕には鼻くそくらいのおひたししか作れないんじゃないかと思う。こんなつくし摘みなどありえない。そういっていいほど、貧弱な量。鼻くそにすらならないかもしれない。もしもこれをあの頃の僕が、あの両手に抱えられないほどのつくしを持って帰っていた僕が見ていたら、「これだけじゃあ、つくし摘みとはとうてい呼べないね」と、きっと呆れられてしまうはずだ。

 けれどもあるいは、潜在的なつくしたちは僕の見えないところに隠れているだけなのかもしれない。視点を変えてみよう。さっき僕は、マクロな視点から庭を眺めていた。だから今度はしゃがんで、つくしの穂先の高さまで目線を下げてみる。ミクロな視点から庭を眺めてみる。

 するとすぐに、他の草花に抜きん出て伸びているつくしたちが露わになってくる。けれどもだめそうだ。まだ足りない。まだまだ足りない。ならば。さらに目線を下げてうつ伏せになってみる──やっぱり足りない。ぜんぜん少ない。あの頃の僕に鼻で笑われてしまう。これではどっからどう見ようと、完成するおひたしが鼻くそ以上のものになり得るとは到底思えない。それは両の手指におさまるくらいの、わずかな本数である。否、それはさすがに言い過ぎたとしても、おそらくは両の足指を含めれば数え上げられる程度だと思う。いずれにせよ、ほんのわずかなものであることには変わりない。

 ともかく、摘みとっていこう。つべこべ言っていても一向に埒が明かないということくらい、僕にだってもうわかっている。一本ずつ、手前のものから順々に。ところで家から持ち出したハサミは、つくしの付け根のところに挟んで切るために持ってきたものだった。ひと息できれいにチョキンと切れるだろうから、手で摘みとるよりもはるかによく鮮度が保てるはずだと思ってわざわざ持ち出してきたのである。僕は目の前に伸びているつくしの付け根にハサミをあてながら、しかしふいにハサミを放り出してしまう。妙な違和感を覚えた。そして同時に、胸焼けのような嫌悪感がこみ上げてくる。

 危ないところだった。しかし危なかったな。なんてことだろう? ハサミでつくしを切る? ばかげている。僕は恐ろしいことをしでかしてしまうところだった。思えば幼きあの日から利器の頼りを必要としたことなど僕には一度としてなかった。利器に頼らなくたって、つくしはずっと手で摘みとってきたものだった。いやしかし、あらためて危なかったなと思う。あのまま違和感を覚えないでチョキンといっていた場合、僕はあの日の僕から、いったいどれほどの大目玉を食らっていたんだろう? 恐ろしい。ともすると僕は彼に、取り返しのつかないような大きな失望を与えることになっていたかもしれない。つくしは素直に実直に、手で摘んでやればいいのである。自らの手でていねいに摘みとる。それこそが真のつくし摘みというものだ。

 摘みとったつくしは、トレーへと移していく。やはり家から持ち出してきた籐織りの浅いトレー。このトレーは、ふだんはもっぱらパンを盛るために使っているトレーだ。パン用のトレー。つくし。摘みとったつくしが、ふだんリビングでパンが盛られているトレーに盛られていく、しかも野外で、というのはなんとも奇妙な感覚であり、この奇妙さを僕はなんと表現すればいいのかわからない。が、ともかくそこには、すさまじく圧倒的なデペイズマン感がある。デペイズマン。このような奇妙な感覚に陥ることを、実を言えば、僕は生活の中でしばしば経験している。圧倒的デペイズマン感。鉢合わせるはずがなかったものたちの、鉢合わせ。場違いな邂逅。鉢合わせるべきでなかったものたちの、共存。

──当たり前なのだが、このデペイズマン感には僕は至当な居心地の悪さを感じざるを得ない。というかむしろそこには「感じるべき」と言った方が正確とすらいえるほどのある種の強迫観念のようなものがあって、端的に言ってそれは不愉快極まりないわけだが、しかしそこにはなぜだか逆に、すこぶる愉快な感覚もまた同時に存在している。不愉快と愉快。相反する感覚の境界線上で心が揺らいでいる。脳がうじゃうじゃと混乱を極めている。僕にはそれがわかる。静かなる脳の、静かなる惑乱。その惑乱に、しばしの間したたかに酔いしれる。これは頭寒足熱的な営為にも似ていると思う。自らの脳‎の、その惑乱への陶酔。それは言わば、半袖でこたつに入る、みたいなことであり、つまりは露天風呂である。

 トレーに盛られた、大小さまざまなつくしたち。今日この庭に生えていたつくしは、少なくとも僕が観測した範囲においては、そっくり余さず摘みとった。トレーの上につくしを整列させてその数をカウントしてみると、26本。うん、少ない。が、両の手足指にはおさまらない数ではある。当初の概算が外れ、結果としてこれは嬉しい上振れなわけだが、けれども後のつくし料理のことを考えれば、この程度の上振れは微々たるものでしかない。おひたしが鼻くそから耳くそになったくらいのほんの微々たるもの。調達すべき数としては、やはりまったく足りないということにはなんら変わりない。

 しかし庭に生えているつくしということで言えば、我が家の庭という限定をしないならば、薄いフェンスを挟んだ隣の家の庭にも生えていることを僕はすでに知っている。スギナのつんつんした緑を、さっきつくしを摘んでいるときから横目で捉えていたからだ。お隣さんの庭に形成されているスギナ畑は我が家のそれよりはるかに巨大で、青々としたツンツンのその絶大なる存在感はまさしく見事というほかない。隣のスギナは青い。これは誰の目にも明らかな差として青くデカい。しかしこの差は、いったいなんだろう? 陽の当たり方の問題とかだろうか。

 しかし目と鼻の先に生えているからといって、むろん、僕は向こうのつくしに手を出すわけにはいかない。お隣さんのスギナはお隣さんのスギナであり、お隣さんのつくしはお隣さんのつくしである。僕のものでは決してない。僕が勝手に摘むようなマネは、決して許されない。

 どうだろう? ならば許しをこいにいくというのはどうだろうか。チャイムを鳴らしにいき、玄関先で「すみませんが、お宅の庭のつくしをいくらか摘みとらせていただいてもよろしいでしょうか」と許可をとってみる? どうだろうか。僕には、むろんそんな勇気はない。チャイムまでこぎ着くというのですら困難なことに思える。僕には厳しい難題だ。

──しかし我ながら僕は、救いようのない意気地なしだなと思う。自分はあまりに弱いと思う。僕は軟弱者だ。腰抜け野郎だ。けれども僕はいまさら考え直す必要もなく、そもそも論そういう弱腰人間なのだ。へっぴり腰だ。これはなんというか、僕の体にへっぴり腰という腰がついているというよりは、むしろ僕という存在それ自体がへっぴり腰だと言ったほうが正しいと思う。僕は腰なのである。僕の一部が腰なのではなく、僕=腰なのだということ。僕は腰。僕は腰。

 僕のやるべきことは、そういうわけだから、実のところすでに決まっていたのだ。僕はごく近傍につくしの存在を認識していながら、しかし、ただちにここから潔く撤退しなければならないのである。僕は僕のつくし摘みを継続するために、先のことはともかくとして、ひとまずはここから離れることから始めなければならないということ。

 してみると、つくしの残りの不足分はどこへ行って補えばいいのかということになるわけだが、僕としてはどこにも行くあてがないというわけではない。僕には行くあてがある。あの日から、年月の経過とともにかなりの田んぼは開発されていったわけだが、しかしだからといって、すべての田んぼが埋め立てられてしまったというわけでは決してない。少し歩いたところにいけば、素晴らしく晴れ晴れしい田園風景はいまだ視界いっぱいに広がっている。田んぼ。そこに行けば、スギナも、そしてつくしも、たしかにたっぷりと生えているはずだ。

 僕は田んぼへと遠征に出かける。準備はすでに済んでいる。僕の身体ひとつとトレーだけ。これだけ。ハサミ? あんなものはいらない。必要ない。とにかくゴルフ場の裏にある田んぼ。そしてそのあぜ道。土手。あのあたりへ行こう。そこにはきっと、つくしがある。

***

 僕は田んぼ道を歩いていく。右手には田んぼ、左手にはゴルフ場。打ちっぱなし。打ち飛ばされたゴルフボールがポールにあたって「カーン」という小気味好い音を立てる。つくし摘みにいく。その前につくし探しだろうか。いや、その前にスギナ探しだろうか?

 スギナは目立つ。僕はつくしを採集しにきたわけだが、だから、まずはスギナ畑を見つけることをさしあたりの目標に掲げるとしよう。つくしではなく、とりあえずはスギナ。スギナのツンツンつっぱった緑は、つくしよりもいくぶん目につきやすく見つけやすい。まずはスギナ畑を探していく。巨大なスギナ畑を見つけて、そこでつくしを一挙に乱獲しつくしてしまおうというのが、いま僕のとりたい戦略である。スギナがツンツンしているところには、幼い頃からの経験則として言えば、往々にしてやはりつくしも生えているものである。むろん、スギナ畑があるからといって必ずしもそこにつくしが生えているとは限らない。けれども時期的にはもういまは十分生えている頃なはずだし、実際、さっきも庭に生えていたのだった。僕はだから、あるていど妥当な言葉として「スギナあるところにつくしあり」と、そう言うことができる。少なくとも今日のところは、そういうふうに考えてしまっていい。

 右手の土手につくしの生えているのを見つける。一本だけで、ぽつんと孤立して伸びている。庭に生えていたよりもすらっと伸びている長身のつくし。──けれども、つくし? まず僕はスギナ畑を探すんだと意気込んでおきながら、ところがあろうことか、つくしが先に目に入ってきてしまった。なんということだ!

 不条理。なんて不条理な世の中なんだろう。僕は思うのだが、世の中には筋の通らないものごとというのがあまりにも多すぎるんじゃないかという気がする。つい今しがた立てた僕の戦略は、かくも容易く崩れ去ってしまったというのか。僕はつくしではなくスギナを目指して歩いてきた。

 けれども、と僕は思う。よくよく冷静になって考えてみれば、紛れもない事実として、僕はたったいま欲しかったつくしにちゃんとありつけたのである。喉から手が出るくらい欲していたつくし。ほかでもない、つくしに。つくし採りに出向いておきながら、それでいて僕はいま、いったい何を考えているというんだろう?

 ようやくありつけた貴重な一本なのだから、今すぐ摘みとってしまったほうがいい。長身のつくし。土手の斜面から転がり落ちないように注意してそのつくしに手を伸ばしながら、僕はまたしても、けれども、と思う。土手は土手なのだが、とはいえ歩道にほど近いところに生えているこのつくしは、ともすると、犬のションベンを浴びているかもしれない。歩道というのは、人の歩く道であると同時に、また犬の歩く道でもある。犬のションベンまみれになったつくしなんて、しかし僕としてはまっぴらごめんである。断固お断り。僕は犬のションベンのかかった食材を自らの口に運びたいとは思わない。ここはひとつ、慎重な吟味をしなくてはならない。

 世界には2種類のつくしが存在する。犬のションベンをかぶったことのあるつくしと、犬のションベンをぶったことのないつくしだ。この2種類しか存在しない。

 さて、ではこのつくしはいったいどちらのつくしに属するんだろう? 問題は単純で、すでに二者択一になっている。僕はさっそく入念な観察を開始する。過去にどこかの犬がこのつくしに対してションベンをひっちらかしていた場合、その見た目というのは、おそらくのところずいぶん悪くなっていることだろう。その場合には、想像するにつくしは、ことごとくションベン色に染まっているはずである。このつくしがどちらのつくしなのかは、ゆえにたちどころに見分けることができる。

 が、だ。つくしの本来もっている色というのは、やっかいなことに、犬のションベンのそれと極めてよく一致しているのである。犬のションベンはつくし色であり、つくし色は犬のションベン色なのだ。これではまったく見分けがつかなくなってしまうではないか! 犬にションベンを浴びせられたことがあろうがなかろうが、そんなことには一切関係なく、つくしは生まれながらにしてすでにションベン色なのである。

 飛んでいくゴルフボールを眺めるともなく眺めているうち、用水路をまたいだ向こうの草むらに、僕はまたしても一本のつくしを発見する。今度は歩道から十分離れているし、草も深いところ。ションベンの被害にあっているおそれも、おそらくはないだろうと思える。いやもちろん、必ずやそうだと言い切ることはできないのだが、おそらくはないだろうと思われるくらいには遠い。ところが距離が気になる。幅が広い用水路。用水路、とは言ったもののこれは並の用水路ではなく、子どもひとりがゆうに入って歩けるくらいの大型なタイプの用水路なのだ。僕は用水路の向こう側のつくしを視界にとらえながら、しかしその場でいついてしまう。いまの僕の跳躍力では、もしかするとここを飛び越えることは不可能かもしれない。思えばむかしは、躊躇せずともここをターンと飛び越えていた。反復横跳びみたいにリズム良く、交互に飛び移って行き来を繰り返すことさえできていた。

 けれどもいまや僕は、悲しいかな、ほんとうに弱腰人間になってしまった。救いようのないへっぴり腰。小学生の僕に「君はいつからそんなへっぴり腰になってしまったんだ?」と笑われてしまうかもしれない。けれども僕としては、その問いにすんなり答えを与えることができない。「どういうわけで君は、そんなにざんねんなへっぴり腰になってしまったんだろう?」と問われても、やはり答えに詰まってしまう。僕はいつからか、どういうわけか腰になった。僕は腰。腰なのだ。

***

 ともかく、さらに歩みを進めていこう。つくしを探して歩いていく。なにはともあれ、僕はつくし摘みにきているのだから。

 土手に目を凝らしながら進んでいくと、雑草の緑の中に淡紅色の花が咲いているのを見つける。ヒメオドリコソウだ。一面に淡紅色が、もふもふと広がっている。ホトケノザも咲いていないものかと淡紅色の周囲を確認してみるが、残念なことにどうやらここには咲いていないらしい。なにせホトケノザとヒメオドリコソウは、身を寄せあって一緒に咲いていることを目にすることが多い。けれども思い出してみれば僕は幼い頃、明らかにホトケノザのほうをひいきしていたきらいがあったように思う。そう、たしかにひいきしていた。

 ホトケノザは、まずはなんと言っても、鮮やかな赤紫色が目を引く。幼き僕は、ホトケノザの赤紫の派手さに魅了された。ヒメオドリコソウの淡紅色よりはむしろ、ホトケノザのあの赤紫の華やかさのほうにくびったけだった。ヒメオドリコソウが葉っぱの影からこっそり花をのぞかせているのに対し、ホトケノザの赤紫は、まるで己の存在を誇示するかのごとく天へ向かって高々と咲き誇っていて、僕の幼心にはそれもやはり強く印象的に残ったのだった。あとは名前。これも僕をくすぐった。ホトケノザ。花を支える葉っぱを仏さまの座る蓮華座にたとえて「仏の座」とのこと。え、仏の座? 僕は赤紫の派手さに魅かれていたわけで、むろん、そこに仏さまを連想したことなどなかった。この派手な赤紫に、仏さま? なんか、かっこいい。かっこよすぎる。華やかな花が仏さま。見た目とのギャップ。かっけぇ! それを知ったとき、僕のなかにすさまじく強烈な衝撃が走ったのだった。今にして思えば「姫踊り子草」というネーミングもなかなか悪くないと思うのだが、しかしおそらくは、「仏の座」のインパクトがあまりに強烈すぎたということなのだろう。

 小学生の僕は下校中にホトケノザが咲いているの見つけると、いつも目を輝かせて小躍りした。それをていねいに手でつまんでそっと引っ張っぱると、筒状の花を摘むことができる。口に運ぶと、ほんのり甘い味がした。下校道の道草で、ホトケノザの蜜を吸って味わうという遊び。僕はそうやって、ホトケノザの蜜をおやつがわりに楽しんでいた。

 視界の右手に眺めていた田んぼが畑に変わろうとしている地点まで歩いて、僕は土手の頂上に、ようやくスギナ畑を発見する。僕の立てた戦略のとおり、そこにはびっしり稠密につくしが生えている。ここまでなかなかに紆余曲折があったわけが、やはり結局は「スギナあるところにつくしあり」だったのだ。僕は無心でつくしを摘みとって、そしてトレーへと移していく。ここにあるものはぜんぶ摘みとって帰ろう、と僕は思う。けれども。あるいはそれは叶わないかもしれない。明らかにトレーが小さすぎるのである。トレーを満杯にして余りあるつくし。これは喜ぶべきことだ。幼い頃にさんざ見た、あの光景がみるみるよみがえってくる。歓喜。僕はいま僕が、つくしの大群を前に胸が高鳴っているのをたしかな実感として感じている。僕はいま、最高に晴れやかな気分だ。金脈の存在が保証されたゴールドラッシュみたいな最高に晴れやかな気分。

***

 このくらいだろうか。僕はトレーいっぱいに盛られたつくしとともに帰路につくことにする。これ以上摘んだところで、もう持って帰ることはできない。僕は踵を返して再びもと来た一本道を戻っていく。右手にはゴルフ場、左手には田んぼ。さっきとは逆。ゴルフ場に沿って続く用水路は、幼い頃の僕にとっては、用水路というよりはむしろ川という認識だった。幼き僕はそういう感覚でもって、バケツと虫とり網ととも用水路にずかずかと入っていき(当時、膝が浸かる程度の適度な水深があった)、ドンコとかヨシノボリとかどじょうとか、そういう川魚をガサガサ捕まえて遊んでいた。捕まえた魚は家に持ち帰って水槽で飼育することもあった。

 あるとき僕の家では、どじょうを飼っていた。どじょうは3匹で、「にゅるちゃん」と「にょろちゃん」、それから「線どじょちゃん」という名前だった。にゅるちゃんとにょろちゃんは、これは記憶がおぼろげなのだが、おそらくは母の命名だったと思う。水槽にはにゅるちゃんとにょろちゃんが先にいて、後から線どじょちゃんが新たな3匹目として投入された。そのとき体に線の模様が入っていることを見つけた兄が、「ではみなさん、線どじょちゃんというのはどうでしょう」と言い、それが鶴の一声となって、そっこく満場一致で「線どじょちゃん」に決定ということになった。

 おもしろかったのは、餌やりの一幕だ。金魚の餌をパラパラ撒いていくのだが、彼らはそろって3匹とも、餌が水面に浮かんでいるうちはまったくそれを食べることができない。食べにいく素振りすら見せない。餌を食べさせるためには、だから、餌をつついて水中へと沈めてやらなければならなかった。けれどもまだ足りない。彼らはそれでもまだ食べてくれない。僕らはさらにその後、水を撹拌させることで彼らのひげに餌をじかに触れさせなくてはならなかったのである。ここまでのことをしなくてはならなかったのは、彼ら自身のもっていた、とあるユニークかつユーモラスな性質による。というのも実は彼らは、餌が自分のひげに接触することではじめて餌の存在に気がつくことができるのだった。これは僕らにとってはいささか困りものの性質だった。けれども同時に、とてつもなく愛くるしい性質でもあった。餌がひげに接触しない限り、彼らは土の中にうずくまったまま、気づくそぶりもまったく見せず悠々自適に各々の生活を謳歌しているのだった。

 にゅるちゃんとにょろちゃん、そして線どしょちゃん。彼らは金魚の餌も好きだったのだが、いろんなものを雑多に食べていて、なかでも炭水化物系の食材は好物だった。とりわけそうめんは大がつくほどの好物だった。そうめんはひげに触れたとたん、いっさいのわだかまりなしに、一瞬にして颯爽と吸い込まれていく。「こやつら、ずいぶんうまそうな食べ方をするもんだな」と、当時の僕は感心しながらその様子を眺めていた。彼らのそうめんのすすり方は、僕の目には、僕らなんかよりもずっと美味しそうなすすり方であるように映ったのである。ひげの接触と同時に気持ちよくずるずるっと吸い込まれていくそうめんを見届けることは、僕らにとって至極当然の成り行きであるかのように思えたし、いつまでも永久に観ていられるような気がした。そしてそういう時間というのは、つくし料理を囲んでいるときと同じく、僕らにとっての至福のひとときとなっていたのである。

***

 つくしを一本も落とすことなく無事に家へとこぎ着けたら、さっそくキッチンへと急いでいく。つくしの鮮度が落ちないうちに、一刻も早く即キッチンへ。

 まずは下ごしらえ。水をたっぷり張ったボウルに、トレーからとり出したつくしをさっと浸す。穂の胞子が溶け出て、透明だった水があっという間にぼんやりとした緑色に染め上げられていく。ガシャガシャと攪拌してよく洗ったら、水を捨てて再びまた新たな水を入れなおす。緑がさっきより、いくぶん薄まっている。洗っては水を捨て、洗っては水を捨てということを何度か繰り返す。この工程は、何回か繰り返し行わなくてはならない。つくし全体に付着している砂とか泥とかの汚れを落とさなくてはならないというのも当然あるし、なにより、よくよく注意して摘んでいたとはいえ、このつくしの中に犬のションベンを浴びたつくしが一本たりとも含まれていないとも限らないからである。どこでもかしこでもションベンを撒き散らかすような犬が仮に一匹でも存在している限り、僕には何度でも新鮮な水を入れなおす必要がでてくる。

 水気をペーパーでよく拭きとったら、つぎははかまをとる。一本いっぽん、ていねいにとっていく。規則正しく間隔をあけて茎についているそれは、指でつまんで茎にそってくるりと回すと、ぺりりと音を立てて小気味好く剥きとられていく。そしてそれと同時に、はかまに隠れて茎にへばりついていた緑の胞子が露わになる。胞子がもくもく溢れていく。親指の爪の隙間がびっしりとその緑で埋めつくされていくのを眺めながら、僕はつくしがまぎれもないシダ植物であるということをゆっくり嚙みしめていく。「つくしんぼ」とか「つくしんぼう」とかの呼び名からは想像もできないような話だが、つくしというのは結局はスギナの茎であり、シダ植物なのだ。

 鍋にたっぷりのお湯を沸かしてティースプーン山盛り1杯の塩とともにざっくり数十秒くらい湯がいたら(そんなに長時間はやらない。やりすぎたら、ふにゃふにゃになってしまう)、ざるにあげてすぐさま冷水にさらす。そのまま少し放置して、アクが抜けていくのを待つ(ここでもやはり、少しだけ。やりすぎたらアクだけでなく、風味や旨味まで抜けてしまう)。冷水を捨ててからぎゅっとつくしを絞ったら、最後にペーパーで水気を拭きとる。下ごしらえは、これにて終了。

 さて、料理。つくし料理。田んぼ道を歩いているときから何を作ろうかということはあれこれ考えていたのだが、結局、今日は卵とじにしてみるのがいいんじゃないかということになった。小学生の頃、母の作ってくれたベーコンつくしパスタにつくしの新たな顔を発見したように、今日もまた新たな顔を発見してみたいと思い、それなら今まで作ったことがないやつをということで卵とじに決めた。もともとは無難におひたしでもいいんじゃないかと思っていたのだが、やはり今日のところは初めてのやつ。卵とじ。これでいく。

***

 卵とじ。つくしの卵とじ。味付けは親子丼的な、ああいうちょっと甘めな感じがいい。火にかける前のフライパンで、だし汁、醤油、砂糖、みりんを合わせる。そして中火にかけて、しばし待つ。待っているあいだ、沸騰するまでのあいだにボウルで卵を溶きほぐしておく。それから、ねぎ。細ねぎもこの間に刻んでおく。今日は小口切りではなく、ざっくりとおおざっぱに。沸騰したら火を弱め、下ごしらえを終えたつくしを入れたら、続けてねぎを投入しさらに卵を全体に回し入れていく。鍋肌(フライパン肌?)の付近にある卵が半熟気味になってきたら、それを中央に流し、鍋肌(フライパン肌?)の卵がまた再び半熟気味になるのを待つ。

 このあたりで、ちょっと味見。しかしまぁ味見はするにはするのだが、ここではそれも、ねぎの欠片と卵の切れ端くらいのものに留めておくことにする。後で食べるときの本命の感動を奪いたくない。つくしは避けて、ねぎと卵だけ。つまんでちょっと食べてみる。うまい。ちゃんとうまい。ちょうどいいと思う。

 それから全体的に卵がいい感じのゆるい半熟状態になってきたところで蓋をして、火を止める。しばし蒸らす。3分ほど待ってから蓋を開けると、立ち込める湯気とともにそれは現れる──ということなのだろうだが、一瞬、それがなんであるのかわからなかった。というか、見えなかった。眼鏡が曇ってしまい、ホワイトアウトした視界の先にあるものがいったいなんであるのか、もうひとつよくわからなかったのだ。けれども眼鏡をずらしてあらためて見なおしてみれば、それはまさしくそうだった。つくしの卵とじ。よし。これにて、完成。

***

 いただきます──。口に運ぶと、まず甘い。まさに親子丼的な甘さ。ちょうどいい甘さ。ねぎはざっくり切って正解だったと思う。それから次いで、すぐに苦みがくる。それも、ほんのりやさしいほろ苦さ。うん、うまい。卵とじ。つくしの卵とじ。感動。また新たなつくしの顔を発見してしまったという感動。すべてが、僕の経験したことのすべてが、走馬灯のごとくまざまざとよみがえってくる。──いやしかし、うまいなと思う。つくしの苦み。沁みるなと思う。苦み。これはまさしく、あのときの味。みんなで囲んだ、春の味だ。

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