虐待って気づかれないし、本人も気づかない


ツイッターでRTされてきた以下の動画を見てただただ自分の中に溢れ出してきた過去を書きなぐりました。

【知って欲しい】虐待の線引き〈シリーズ企画〉児童虐待を考えようVol.01
        https://youtu.be/RJjpRoBxyJs

虐待の話です、読むと苦しくなるかもしれません。
そんなときはこのページをすぐに閉じてください。



動画で説明された虐待全てに当てはまった人間です。
動画では親からの虐待のみ取り上げられていましたが、きょうだい間でも虐待は起こります。
それがたとえ年下から年上に対しても。

父の性的虐待心理的虐待、母の心理的虐待、妹の暴力それが日常でした。

父親

父は長期間仕事で家をあける人でした。
それなのに虐待なんかされたのか?と思われる方もいるかと思います。
仕事が長期の為、休みもまとめて1ヶ月前後取っていたのでその間はできたんです。

一番最初の記憶ってなんですか?自分は父親に拒否された記憶が最初です。
まだ幼稚園のころ座ってる父親の膝に乗ろうとしたら突き落とされました「足の骨が折れる!」って、幼児にいうセリフじゃ無いですよね?
自分は小学校低学年までかなり小さかったにも関わらずです。

寝る前の挨拶はどんなのでしたか?
自分の家は父親がいるときだけ、父親からのディープキスでした。
最初は舌が入ってくるのに驚いて噛んで叱られました。
嫌がって逃げれるようになるまで続きました、これは妹もされていました。

一緒の布団に寝ることが許されていたころ、ふと目が覚めたら父親の一物を握っていたこともありました。
これは被害を受けたのが自分だけなのか、妹もなのかはわかりません。
数年前気づいていたと電話で打ち明けたら、お前が誘ってきたと言われその場で電話を切りました。

他にも終わらない正座や平手打ち
年々一方的に怒鳴れなくなる女性陣への文句をひたすら聞かされる電話、理不尽にしか思えなかったので全て自分の中で握りつぶしていましたが……。

自分へのひどい暴力の記憶は無いのですが、妹と父の壮絶な喧嘩で廊下の端から玄関まで反抗した妹を蹴り飛ばしひたすら腹を蹴って進んだのはよくやるなと思いました。
そのあとの妹の「痛くなかった」という言葉にも戦慄し、鬼しかいないのかこの家は……と思いました。

小さい頃親の喧嘩……というにはあまりにも一方的な暴言の数々を母親にぶつけている父親から母を護ったら、お前は俺の味方じゃないのか!と怒鳴りつけられることも侭ありました。
父の言葉は肯定しなければ怒られたり、人格否定をされるのが常でした。

幼い頃から「お前らは俺の家族じゃない」「お前たちが20歳になるまで離婚は我慢してやっているんだ」と言われ続けていたので、父親の顔色をみて一番問題なさそうな回答をするのがうまく生きるための必須スキルでした。
自分は妹より下手でよく反感を買っていました、それでも母親から「小さい頃から父親の顔色をみて、先回りをした行動を取っていて気持ち悪かった」と言われました。
離婚は中3の一番大変なときに揉めに揉めて実行されました。
理由は「お前たちのせいで俺の健康が害されるから別れろ」でした。
鼻で笑うしかないです。


母親

周りからの評価はいいお母さん、父親のシンパからは過干渉な母親。
自分も良い母親だと思っていました。
人にそれは虐待だと言われ、されていたと自覚するまで時間がかかりました。

幼稚園の頃から夫婦喧嘩の仲裁、泣いている母に拭くものを持っていき父親に怒られるが護るのが何故か使命だと思っていました。
小学生になれば家計が苦しいことを聞かされ、父親へ生活費増額依頼の為Excel形式の家計簿を作成してお願いするも全否定されてなんで理解できないんだと悔しさでいっぱいになりました。
仕方ないのでお年玉貯金を家計に足してもらい、小学生ながら貯金ゼロになっていました。

中学にあがり妹が非行に走り母親はこちらへの関心を向けることが少なくなり、ストレスからかヒステリックに怒鳴りつけられることも増え自分も精神を病み始めた。
それでも妹が起こす問題が大きすぎて自分は何をしても気づかれなかった……、別に気づかれたかったわけじゃないけど辛かったのは覚えています。

精神病院は薬ばかりで行くのは無駄だと2年近く通院を拒否されていました、その間で拒食症のような状態や睡眠障害・自傷行為など色々現れていました。
最終的に中学校に来ていたスクールカウンセラーさんから母親へ強い打診があり通院が開始されました。
それでも無駄だと言われ続けました。

そして自分の偏食に嫌気が差したのと祖母の介護もあったので、食事を作ってもらえなくなりました。
致し方ないと自分で作るようになりました。

こう文にしてみても虐待をされていたという感覚がありません。
でも普通じゃないというのは、友人に教えてもらいました。



幼い頃から内弁慶ですぐ癇癪を起こし、泣かされていた自分は妹から見ればカースト最下位の人間だったのでしょう。
力がつくまでは言葉の暴力がメインでした。
喧嘩では髪を掴む・ひっかく・噛み付く……顔面を容赦なく削ってくれたので生傷が絶えませんでした。
なんとか腕を固定して傷が減り始めた頃、力で勝てないと理解して包丁や椅子を投げはじめ
「殺してやろうか」と首にカッターナイフを当てられたりして、ダイレクトに攻撃されていたときとどっちが楽だろうと考える日々でした。
こめかみにクリーンヒットした小皿が真っ二つに割れ、痛みより驚きが勝った記憶があります。
ひとつひとつ丁寧に痛いなんて反応をする時間はありませんでした。

中学生の頃から暴力は毎日朝に帰ってきた時の踵落としからになりました。
寝ているところを襲われるので防御するしか無く、やられっぱなしで騒ぎを聞きつけた母親が止めにくるまで終わりませんでした。
物損もひどくノートPC・ゲーム機にCD/DVDや本、物を投げたりもしたので家具や家電・窓が割れるなど大きくなるにつれ酷くなり家を出る前の時期は警察が家に来るのが当たり前のようになっていました。
妹からの暴力は母と自分へ向けられていました。
母は裁ちばさみで上腕を刺されたこともあります。

妹は「母親は金づる、毟り取れるだけ取る」と宣言していましたし、自分も「生きている時間が違いすぎてムカつく」と言われていました。

これだけやられても、自分はやり返すという衝動が出てくることがありませんでした。
やり返せなかったのは小さい頃から「妹に手を上げるな、女の子の顔に傷ができたらいけない」と言われ続けたからです。
とっさに反撃できないとなると、とにかく自分を守ることしかできませんでした。
お腹は守らなきゃ背中ならあんまり痛くない、大事なものは見つからないように隠そう家なのに安心できる場所ではありませんでした。



離れてみてわかりましたが、自分たちは近くにいてはいけない者が集まっていたんだと思います。
今では母親とそれなりに良い関係だと思いますし、父親と妹は絶縁状態で障り無く平和に過ごせています。

家族だからといって仲良くなれるわけでは無いのです。

そして虐待は受けている人間は気づけません、なのに深い傷跡が心に残っていて、”手を振りかざされる””大きな声を出される”そんな行動で体が固まってしまいます。

そんな自分は家族を持ちたいとは思いません、歳を重ね考えれば考えるほど人への愛情表現がわからないからです。
物には恵まれていたと思います、経験も色々させてもらいました……だから好きになったら物を貢ぐのが正解なのか?奢るのが正解?違うと思います。
けど我が家はそうでした。
父親は金を払っていれば、一番偉く文句を言われずお礼を言われる人でしたから外面は非常に良かったです、自分と友達に会えば盛大に奢ってやりこれからもよろしくと言う人でした。
母親の愛情だと思っていたものは、世間から見ると少し違ったようです。
だから自分はわかりません、規範がないのです。

仲良くなれたと思ったら距離感を見失います、0か100しかない欠陥品なので。


こんなかんじでだらだらと書きましたがやっと終わりです。
夢はさっさと現世を退場することです。

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