気持ち悪いの美学(美しくない)
会話や自己表現に()を使うやつって気持ち悪いですよね。
初投稿になります。こうげんと言います。
本日、僕はある開き直りをしたらとても気分が晴れやかになりやる気に満ちてきたのでその件について一筆させていただきます。
僕はよく()を使った表現をしていました。僕はよくふざけたりボケたりするときに回りくどい言い回しをします。しかし、その時に相手にうまく伝わらないかもしれないという懸念からタイトルのようにあとから()の中で説明を加える、という使い方をしていました。
最近は()を使うことを「あ、キモイな。」と思いだしたらのでそもそもボケないようにし始めました。キモさを憂いてアイデンティティを一つ消失させてしまった。
これは僕のキモイエピソードの一つにしかすぎません。
僕は友人によく気持ち悪い奴だな。と言われることがあります。それは僕のひねくれた思考回路やニッチな趣味など様々な要素が原因であるとわかっています。そればっかりはもう変えられません。
変えられないものがあるのにどうすればいいんだ。そう考えていると、あるひらめきが起こりました。変えられるものを変えるという考えです。
今まで僕はこの気持ち悪さを短所だと捉えていました。しかし見方を変えるとこの気持ち悪さは常人は持っていないアイデンティティであるとみることができます。
気持ち悪さにおいては俺が最強だ。俺の右に立ちたい奴はいねぇ。
マイナス×マイナス=プラス の考えですね。
それ以来、僕は清々しい気持ちになり、本来ならこのnoteすら気持ち悪い文であることに変わりはないのに、それが俺だ。という自己肯定の道具となりました。
気持ち悪さを前面に押し出す姿勢をとることにより、課題のレポートなどでもすらすらと筆が進みます。
しかし、この文章は将来の自分がみれば恥ずかしい黒歴史になるやもしれない。でもそれはそれ。今という時間の指標にならんことを。