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映画「ドライブ・マイ・カー」を観終わって

【※ネタバレ含みます・観賞後にお読みください】
国内で数多く受賞した他、海外においてもアカデミー国際長編賞やカンヌ国際映画祭脚本賞、ゴールデングローブ外国映画賞、全米映画批評家協会 監督賞・作品賞・主演男優賞……。私は、映画にそれほど精通していないので、断言できないが、近年これほど評価された映画は珍しいように思える。

映画「ドライブ・マイ・カー」公式HP

勘違いしていた舞台設定

恥ずかしながら原作を全く読んでいなかった私は、映画を見るまで、
作品の舞台は海外だと思い込んでいた。

私は、映画を観る前に、
イントロダクションや批評家のコメント・一般の口コミなど
できるだけ事前の情報を遮断して、
タイトルから勝手に自分で類推しながら観るのを楽しみにしている。

いつ海外に発つのだろう……

冒頭のシーンで妻・家福音が、
夫・家福悠介に物語を語り始めるシーンでバックに移っている風景を海外のリゾート地だと思い込んで観ていた。
翌朝のシーンで、え?都内なの?と驚いた。
そこでもまだ、いつ海外に発つのだろう……
車は持っていけないだろうから、海外で乗り換えるのか?
にしては、SAAB(サーブ)900が
まるで人格があるかのように撮っているし…
どうやらこの車が変わることはない、となるともうこれは……
国内ドライブだ。

広島に渡ったシーンでやっと、そう気が付いた。
と同時に、何が海外に共感を呼んだのかが、急に気になりだした。
映画ではそれほど日本的なシーンが登場するわけではない。
むしろ、ザ・日本ぽいロケ地をあえて写さないよう
配慮しているようにも見える。
特異性を抑えて、
日常のどこかで見た風景の中で物語が繰り広げられることで、
共感を呼びやすくしているのではないかと思った。

タイトル「Drive my car」が持つ3つの顔

一人称「私の車を運転する」

サーボ900は主人公・悠介の長年の愛車。
診察で緑内障と診断され、視力が衰えると分かり最初に気にしたのが、
「車は運転できますか?」
そんなに好きなんや(^^;)
と愛車度の高さを感じさせる。
そこで、この映画は、この先どんなにつらいことがあっても、
この車と共に生きていくことをテーマにしているのだと良く分かる。
【悠介】+【車】

二人称「私の車を運転しなさい」

広島に渡って、自分の車が運転できなくなる。
運転手(渡利みさき)にハンドルを委ねなければならないことに。
ここで主人公と車の間に、仲介者を入れることになる。
自分の空間に他者を受け入れることが、もう一つのテーマなのだと分かる。
【悠介】+【車】+【他者】

三人称「彼女が私の車を運転する」

ラストシーン。韓国が舞台。
主人公の愛車サーボ900を運転するのは、渡利みさき。
買い物の多さから、二人で暮らしているのだと勝手に連想できてしまう。
しかしみさきが乗り込む車の後部座席に主人公の姿はない。
他者を完全に受け入れた構図。
【他者】+【車】

みさきの微笑

ここで最後のカットで、みさきが微笑する。
これがゾクッとさせた。
だまされた!
瞬時にそう思った。
ひょっとして、みさきの話(母親の二重人格)は
彼女の作り話だったのではないか。
悠介の心を掴むための演技だったのではないか。
実際、実家が事故に遭ったのかもしれないが……。

思いすぎだろうか。。。
そうすると、このDriveの主語はみさきになり、
車に象徴される悠介をみさきが手に入れ、自分のものとした。

そんな印象を最後に植え付てしまった。
それまで一度も鉄仮面の表情を崩さなかったみさき。
韓国のスーパーを出て車に乗り込み、
マスクを外した表情は、何かを達成したかのように爽やかだ。
そしてドライブしながら浮かべた微笑。
衝撃を覚えた。
すごい演出だ。
これまでの話の結末がこの数秒に詰まっている。

ここで初めて日本的な序破急のダイナミズムに飲み込まれていたのだと知った。

この映画のエンディンクの受け取り方が
自分の他者の受け入れ方を
教えてくれているように思った。
だから、観る人によってラストシーンの解釈がさまざまにあると思う。

私は“騙された”という、
他者への猜疑心が
どこか自分の心理に根深く残っていることに、
この映画で気づかされた。

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