祭りが憂鬱

私は祭りが嫌いである。その理由をいくつか書く。目的としては、全ての人がお祭り好きだと思わないで欲しいということである。

楽しいこと前提

どんなものでも、好きな人嫌いな人がいる。それは各自の個性である。
が、祭りに関してはそれが許されない。祭りが嫌いという人はおかしな人、楽しみを邪魔する迷惑な人という扱いを受ける。趣味嗜好は人それぞれなのに、祭りについては楽しみなものでなければならない。

私は旅行が好きだが、周りの人に旅行しろとは言わない。どうして他人を巻き込む形でしか楽しめないのか。

強制的に巻き込まれる

「嫌ならいかなきゃいいじゃん」と思われたかもしれない。
が、近所で祭りが開催されることもあるし出かけた先で祭りが開催されていることもある。お囃子や太鼓、大声は家の中にいても聞こえてくる。どうやって避けろというのか。

じゃあ祭りのない地域に引っ越せよと思われるかもしれない。でも「祭りのない地域」とはどこにあるのか。「○○駅付近は祭りがありません」等と即答できる人はいるのか。元々存在を知らない限り、祭りの情報を網羅的に入手するのは困難である。(地域の祭りであれば、詳細な開催場所が分からないケースも多い)
引っ越せというのなら、ハザードマップのように、祭りと騒がしさを一覧にしていただきたい。そして、「この町は祭りに参加する人だけを住民と認める心の狭い町です」とでもホームページに書いて欲しい。そうすれば、お互いハッピーではないか。

そもそも論として、自治体レベルで祭りのない街というのは見たことがない。祭りに巻き込まれない地域を探すのは至難の業なのだ。

祭りを水戸黄門の印籠か何かと勘違いしている

「祭りなんだから」が口癖である。
祭りなんだからと言えば許されるのか。

相手への思いやりがない

「楽しみにしている人もいるんだから」と言われることもある。でも、静寂を楽しみにしている人もいる。

「自分の都合を優先しないで」というが、祭りに行きたいのも「自分の都合」である。
祭りで一体感が生まれるという主張も目にする。が、私自身一体感が高まっているようには思えない。むしろ祭りに来る人だけでつるむようになり、地域の分断が進んでいるのではないか。「いざという時困るよ」というが、祭り以外でコミュニケーションを取れない人こそいざという時どうするのか。避難所で祭りに行ったことない人ばかりだったら「祭りに行っていない人なのでコミュニケーション取れない」というのだろうか。

うるさくて困ることはあっても、静かで困ることはそうそうないはずである。静かにしている人と、祭りで騒いでいる人、思いやりがあるのはどちらなのだろう。

「そのくらい我慢しろ」というブーメラン

「年に数日の祭りくらい我慢できないのか」という人もいる。では、祭りがコロナで中止になった時「数十年に一度くらい、祭りのない年があっても我慢できないのか」と聞けばどんな答えが返ってきただろう。割合として見ればどちらも似たようなものである。

似たような主張として、「人は一人では生きていけない。少しは我慢することも必要」という人もいる。では、あなたは我慢したことがあるのか。自分が我慢する側になっても同じことが言えるのかと言いたい。

対案は「祭りなしでもコミュニケーションを取れるようにすること」

「だったら対案を出せ!祭りがなければ人間関係が構築できないではないか」という人は祭りがないと満足にコミュニケーションも取れないのである。そんな状態で、見知らぬ土地に行ったらどうするのか。避難所で祭りに来ていない人が多数派だったらどうするのか。「一緒に祭りをしていないので、あなたとは話しません」と突き放すのか。
目指すべきは接点のない相手でも、最低限のコミュニケーションを取れるようにすることである。できないから祭りをするのではなく、できない理由を取り払おうとなぜ思わないのか。そのくせ、他人に努力や譲歩を求める。お互い様である。例えば「脳に障害があり、祭りでなければコミュニケーションを取れない」「祭りを開催しないと体が爆発する病気なのだ」というのなら仕方ないと思う。でも、そんな話は聞いたことがない。

「普段は良くてもいざという時困る」という人もいるが、そんなモチベーションでお祭りに参加しているのだろうか。お祭りは生命保険の保険料か何かなのだろうか。むしろ、お祭り不参加の人をとがめるような雰囲気になった方がいざという時困るのではないか。いざという時は見知らぬ人とコミュニケーションを取る必要がある。いざという時にお祭り等している暇はない。それに、ステイホーム生活で困ったのはお祭り好きな人達ではないか。私はお祭りがあろうがなかろうがコミュニケーションの取り方に変わりはないので困らなかった。

「昔から行われてきたんだから」はセクハラだって同じ。

お祭り肯定派の主張として「長年受け継がれてきたんだから」というのがある。でも、長年続いてきたことが良いとは限らない。代表例がセクハラである。セクハラは少なくとも数十年続いてきた。が、良いことだとは思えない。
似たような主張として「今までどうやって生きてきたのか。我慢できていたのなら苦情を言うのはおかしい」というのもある。セクハラを受けた人と同じように生きてきました、というのが回答である。

また、嫌なら引っ越せという人もいる。返答は「ステイホームするのが嫌なら引っ越せ」である。そもそも、バリアフリーという考え方はないのか。車いすの人に「段差が嫌なら引っ越せ」と言っているようなものである。

それでも対案を出すなら

まず、祭りとマスクが同じものだと認めて欲しい。
共通点は以下のとおりである。
・自治体が推奨している。後押ししている。
・参加/着用していない人が白い目で見られる。
・任意参加だが、同調圧力を感じて仕方なく参加/着用する人がいる。
・効果が検証されていない。
・感染症対策を目的として行われることがある。(疫病退散や無病息災を目的とするお祭りがある)
・感覚過敏の人がしんどく感じる
・実施のメリットデメリットが比較されていない。

その上で「祭りで嫌な思いをしている人もいます。他人を犠牲にして自分たちの娯楽を手に入れていることを忘れず楽しみましょう」とでも言って欲しい。
飲み会でもそうであるが、「楽しくて当たり前」という価値観は嫌われる元凶である。

さらに、場所の移転である。ドームやコンサートホール等、騒音対策をある程度できている場所でお祭りを実施すれば良い。

どうしても公共の場で行うというのなら「休業補償」を出して欲しい。お祭り実施地域の住民に慰謝料として1日1万円を支給していただきたい。コロナでも言われた通り「自粛と補償はセット」である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?