どこでもドアはしあわせになるのか

小さい頃、というか社会人になったあとも、「どこでもドアがあれば、旅し放題でしあわせだろうな」と思っていた。しかし最近は少し疑問を持っている。

今の世の中、色んなものがカンタンに手に入り、様々な体験ができるようになった。AI周りの発展で、今後それは加速するだろう。旅行に限定しても、色々と便利になった。LCCで安く遠くに行ける。クレジット切れば両替も不要。Googleマップがある。翻訳アプリがある。eSIMで通信が容易になった。ブログに体験談がある。画像検索でガッカリすることが減った。ただそれで、旅は以前より「しあわせ」なものになったのだろうか?

旅にとってのストレスは、映画や漫画でいう「ネタバレ以外のすべて」だと思う。ネタバレだけでもいい効率主義な人にとっては、以前より幸福と感じると思う。それを否定するつもりないし、界隈によっては自分もその立場だったりするし理解できる。ただ、旅において自分は、ネタバレ以外も楽しみたい。むしろそれがないと物足りない。旅に関してはどMでしかない。旅に限らずとも、誰しも心に何かしらのどMを飼っているとすら思う。

本題に戻ると、自分は最近、どこでもドアで旅をしてもしあわせになれないと感じている。「あっても使わなければいいじゃん」と思うかもしれないが、便利さの誘惑に勝てず、きっと使ってしまう。その結果、2つのことが起こる。

1つ目は、旅の価値の低下だ。カンタンにいえば、「いつでもできる」と思ってしまう。いつでもできることは後回しにして、永遠にやらない。経験からそれは分かっている。都内に住んでいても、スカイツリーは片手で数える必要すらないくらいに、登らない。旅もしなくなるだろう。言い訳をつくって家でスマホみて終わる日が増える。

2つ目は、合理的になり過ぎることだ。宿泊することに意味を感じなくなる。いつでも行けるなら日帰りでもいい。うまいかまずいか分からないメシをわざわざ食べない。家帰って当たり外れないチェーン店とかで済ますだろう。たとえば都心から多摩に行ったとして、宿泊もせず家に帰り、現地の飯は「都心でも食えるからなー」となる人もいるだろう。そしてそれが先にわかってしまえば、行かなくなる。なぜならそれが1番合理的だからだ。無駄と感じたら淘汰される。

以上のことから、自分にとって便利さは旅をしあわせにしない。そもそも旅は無駄で当たり前のものだ。そこに合理性を持ち込まなくていい。「どこでもドアさえあれば……」と思っていたが、モノが心の豊かさを解決しなさそう、ということが最近分かってきてしまった。ひとつ夢がなくなったようで少し悲しい。結局、すべて気の持ちようなのだと思う。「全てを楽しめるような気持ちがあれば」とまた、自分はモノを求めてしまっている。負の連鎖と捉えるのか、新しい夢ができたと捉えるのか。それもまた気の持ちようなのだろう……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?