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自分を増やすということ

若い頃に戻りたい、とあまり思わない自分の感性が好きだし、過去よりも今日この瞬間が最高だと思うから最高です。

スキル、ハウツー、インプット、アウトプットみたいなプラスチックみたいな言葉を聞くと首の後ろがかたくなる気がする。そういうインプットとかたくさんして、アウトプットもぬかりない人は、絵画とか彫刻をアートと呼んで、「アートも教養のひとつ」っていいながら、教養のひとつのワインを、有名なグラスで飲むのかもしれない。こころのどの部分が喜ぶのかわからないけど、それは人それぞれだから、それぞれの感性があるだけなんだ。

子どもは遊ぶのが仕事だから、それをインプットだとかアウトプットだとは思わない。私は年齢的にも大人だし、労働と納税もしてるけど、年を重ねる度に自由になっている。心も身体も。いつまでも遊ぶように働きたい。自分が生活している社会では、気を抜くと感受性がひからびてしまう。だから、スキルも磨かないし、ハウツーは参考にしないし、インプットもアウトプットもしない。そのかわり存分に遊ぼうと決めている。

子どもと大人の違いは、無意識に遊べているかいないかだと思う。

だれかにおもちゃを与えられてする遊び方に慣れると、どんどん自分が減ってゆく。自分の言葉で話せなくなってしまって、失った自分は取り戻すのが本当に難しい。生まれた瞬間は、誰もが100の自分なんだけど、学校に通わされたり、仕事をさせられるようになるとどんどん減っていって、すり減った靴底と同じくらいになってしまう。

年齢を重ねるごとに自分を増やせる人は、豊かだと思う。私はエルメスもティファニーもまだ持ってないけど、インプットとかアウトプットとかしないでいい自分でいられて、よかったと思う。

そんなことがいえるのは、私がスキルとか磨いて、ダイエットのハウツーに終始囚われ、インプットとかアウトプットとか考えてた過去があって、その結果すべての美しい小説とか映画とか音楽とか洋服が、味気ない情報になってしまったから。自分がメデューサになったのかと思いました。

そんな小手先のことを考えなくても、遊ぶように時間をまるまるこころの向くまま注ぎ込めば、それ自体が自分の身体の一部になることを知ったのも年を重ねたからです。

人生に思い通りにならないことが多いのは事実だけど、自分を増やすことは案外思い通りにいく。というか、自分を増やせるのは自分だけで、どんなことがあっても他人から奪われることはないし、傷付けられることもないから。そう思うと、生きることって自分を豊かに増やしていくことなんだなと気付いて、それに気付いたらそのほかのことはどうでもよくなって、どうでもいいことが情報と化して結果的に私はメデューサみたいでした。

#日記 #エッセイ


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