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昂元庵日記ランダム 1

2013年03月17日

一つのナガレの帰着点と邑作りは一種の保存なのかな?

以前より感じていたことであり、
いつか記載しないといけないと考えていたことなのですが。
それでも、確信があるわけでなく、
自分なりには納得するのですが、それがこれを読む人の為になるのかはわかりません。
だから、できるだけ解る人にだけ読んでもらえれば一番良いと考え、
人の目の触れにくい、この日記に書くことにしました。
今回、書こうと思ったのは、
アメブロに邑作りの夢がまた続くかも・・・を書いたことによります。

しかしながら、これから書くことはあくまで僕の考えであり、妄想だと捉えてもらっても良いと思いますし、
間違いだと考えられても、それを否定する気もありません。


今、日本は多くの国民の危惧するとうり大きな問題に直面しており、
原発問題やTPP問題、領土問題等・・・他にもあるのでしょうが、
潜在化していた日本国の問題や位置が、
大きな動きの中で、新たな位置に移動していっているように思います。
その変化は、良いのか悪いのかわかりませんが、
多分、見る人や立場によって二極に分かれるのだと思います。

ただ言えるのは、アメリカを中心とした一つの価値観の下の世界統一といった枠組みに入っていっていると思います。
政策に賛成するものも反対するものは、おそらくアメリカとの関係なくして日本の存在は難しいと考えていると思います。

世界の統一、統合。ワンワールド。
多分、ナガレはそう向っているのだと思います。
異質や異分子を排除し、
ある支配者による世界統治を目指しているのが見えてくると思います。
それが幸せなのかどうかは、人それぞれです。
資本主義が好きな人には、勝者となり幸福を掴むことでしょう。
反対に、資本主義の中で傷付いたものは、社会から排除されるか、
この世から退場することになるかもしれません。

あくまで僕が感じることですが、
この傷付いたものに対して、世はスピリチュアル思想を用意させました。
物で満足しない者は、心の部分で満足させる必要があり心の分野が用意されたように思います。
満足しないものは、反抗します。
統治には、反抗こそが邪魔するものです。

僕はスピリチュアル思想というか精神世界を否定するものではありません。
とても、大切なものだと思うし、思想、信仰、宗教は必要なものだと思います。
古代より、政治と宗教は同じものでした。
多分、今も支配者の政治は根底にある信仰が存在していると思います。
それは、後で少し触れてみようと思います。

その前に、今のスピリチュアル観(以後スピ観)です。
世で信じられているその教えに僕は少し違和感を感じています。
特に、全てを肯定する姿勢と、ジャッジしない姿勢の危険性です。
ネガティブに見るのではなく、別の見方をしてポジティブに捉えることは良いと思います。
良い悪いの評価でなく、あるがままに捉えそれをポジティブに捉えることは、
一見、生き方を軽くさせ、苦悩を救う方法になるかもしれません。
しかし、反面、それを利用する者が現れることを理解しないと危険だと思います。

神に善悪はなく、高次元的な視点を持つことは大切だと思います。
しかし、我々は低い物質的な世に生きています。
この世のシステムの中で経験することが求められています。
そのため、良い悪いを感じる心を持っているのです。
この世は、二元の世界です。
太極図が示すとおり、黒と白がせめぎあい、調和しているのがこの世の姿なのです。
それゆえ、そのあり方を示すタオ(道)と呼ばれています。

人は、白は白、黒は黒を見極めなければなりません。
なおかつ、それらは極まると反転することを知らないといけません。
それをしないで、二極を一極で見るなら、この世のタオを否定することにつながります。
白と黒は、反転します。
だから、それに囚われない心は必要ですが、その前に白黒を判断することが必要なのです。

今のスピ観は、結論は同じとなっても過程を無視しているように思います。
それゆえ、過程に生きる社会で、無意識の間に誘導されているように思うのです。
スピ観を実践する人は、心の安定を求めるため、全てを肯定し、
世の動きに対して、リアルに対して無関心になります。
目をつぶった状態で平安を作りだすのです。
たとえ火事場の中にいても、瞑想状態を作り出し、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と燃え盛る炎を無視してしまいます。
勿論、火事を悪いことでなく、良く捉える視観はポジティブなものです。
だけど、放火されたことを、放火犯を肯定する必要はないのです。
痛いときは、痛い。
熱いときは、熱い。
そう感じることを表現すればよいと思います。そのうえで、その感覚に囚われないことが必要だと思います。

ずるい人達は、そんなまじめにポジティブに生きようとする純粋な心を利用します。
人として、善悪を判断する心を否定して、自分の思うままの世界の構築に異を唱えないようにします。

ネガティブに考えないように教える人がいます。
それは、良いと思いますが、そう教えられた人はネガティブな現実を見ないようにします。
すべてに目を向ける必要はありません。
しかし、目に映ることを見ないふりは、自分の魂を曇らせることになると思います。
綺麗なものだけ見てれば幸せですが、この世は二極の世界です。
時に、見たくないものを見、苦しみながらも、自分のジャッジをし、
そこから何かを学ぶこと、それが精神世界だと思います。
ブッダが言ったように、この世は苦です。
苦の中から、魂は学ぶのです。

ここでは書きませんが、この世のシステムに傷つき、平和な宇宙の習慣に癒されることは仕方がないと思いますが、その魂は、本来そのために来ているとは思いません。
魂にとってこの世というバーチャルの世界で、何かをなすためにきています。
たとえ、魂にはバーチャルだとしてもこの世の現実に目をつぶってはいけないのです。

この苦の世界でも、囚われない心で幸せを感じることは大切で、ある意味究極の意味があります。
しかし、それは催眠状態で生きるということではないのです。
僕は、スピ観に一種の催眠状態を感じます。

長い歴史も、神の視点では一瞬です。
その一瞬の中での犠牲など神の視点ではたいして意味がありません。
神は、普遍の魂レベルで動くため、生死での観点はあまりありません。
しかし、我々は、その中で生老病死を体験するのです。
血を流し、涙を流し、悲しみを喜びに転ずるために必死に生きるのです。
できるだけ血を流なさないように、
泣く人がいないように、苦しみながら戦うわけです。


この世の支配者は、神の視点を持つかのように、
弱者を切り捨て世界を作っています。
反対するものは、法や権力によって弾圧します。
法や権力に屈指ない心は、スピ観によって眠らせます。

繰り返しますが、全ての精神世界がそうではありません。
その教えも間違っていません。
しかし、どのくらいの割合かはわかりませんが、
正しい知識を持って、落ち着く地点を誘導します。
これが神の言葉を語って毒を混ぜるという意味です。

スピ界では、たくさんのおしゃべりな神様のメッセージがあります。
古来日本も神の言葉を聞いていました。
しかし、それは審神者(さにわ)という特別な知識と能力を持った人がいて初めて可能になるのです。
神掛かる人は少なくないと思います。神の声を聞ける人もいると思います。
ただ、その神が何者かはわかりません。
審神者がいなければ、誰でも勝手にメッセージを書けるし、狐狸のメッセージの場合もあると思います。
ブームがこのことを忘れさせてしまいます。
中には、神に仕える本物の使命を持った人がいます。
その人を埋没させることにもなりますし、多分、そんな人は表にははっきりと出てこないと思います。

いろいろなものが混在する中で、役に立つものを選ぶ必要があります。
意見は反対でも、同じ思いの人もいます。
意見は同じでも、違った目的の人がいます。
一つのことで、全てを判断することは幼稚です。

長くなりました。
どれだけ説明できたか不安ですが、

一つのナガレは人口削減に向っています。
多くなりすぎた人口をある点に戻す動きが見えます。

その源流には、おそらく刈り入れの時期が来たのだと思います。
イエスの言葉に毒麦のたとえがあります。
この世という畑には、良い麦も毒の麦も種を蒔かれた、
しかし、どれが毒麦なのかはわからないから、どちらも育てて、
収穫のときに、良い麦だけを倉にいれ、毒麦は燃やすという話だったと思います。

その意味は、良い人は最後に救われますよ。ということだと思いますが、
多分、それ以上に深い意味があると思います。
この世のサイクルには、進化と退化の法則があります。
進化とは、質を求めることです。
しかし、質を得るには量が必要です。
沢山増やした中から、優れた種を残し、次の進化へと結び付けます。
これは、真理だと僕は思います。
爆発的な人口の増加もこれが原因だと思います。
そうやって歴史は繰り返され、レムリアやアトランティスも破局の中から、次の種を残していったと思います。
再生のためには、破局があるのです。
この破局は血を流さず、価値観やシステムの変換だけで再生をなしとげることは可能なのですが、人の心は、中々そうはいきません。
高等な精神を持つ種族だけが、悲劇的な破局を迎えずに再生、進化してきました。

イエスは、このことを知っていたと思います。
法則の中での、世の終わりのことを。
その教えは、西洋思想の底辺に流れていると思います。
僕は、ミロク信仰とは、ここにあると考えています。
ミロクの時代は訪れます。
しかし、ミロクという偶像は存在しないと思います。
これが、僕がミロクを追って得た結論です。

和合の時代、ミロクの時代はやってきています。
しかし、救世主ミロクの降臨とは、誰かを意味するものではありません。
他人が救うのではなく、自分の中に生まれるある支点です。
沢山の危機感、不安を和らげるために麻酔薬としてミロク信仰は創作されたように思います。
こんなこと書くと、反発されそうですが・・・・

最後は、全てうまくいきます。
これは、そのとうりです。
でも、このうまくの意味を理解する必要があります。
うまくの帰着点は、進化です。
進化の前には、破局があります。
私たちは、そこに生きる人間として、この破局をできるだけ小さくする行動が必要です。

支配者もこのことを知っています。
強者である自分達が生き残って、弱者は排除しても当然だと考えていると思います。
それが真理だと信じていると思います。
しかし、精神のレベルでは、そうではありません。
困難を乗り越える精神力が進化へと繋がります。

それは、困難の中でも笑える心持かもしれません。
そういった意味では、肯定的に捉える視点は有効です。
悲観より楽観が有益です。

私たちは、厳しい現実に対処しながらも、悲観になる必要はありません。
それは、逆効果です。
為すべきことだけを、淡々と為していけば良いと思います。
それは、人それぞれです。

僕が、邑作りを夢見て、実際できるかわかりませんが、
その意味は、もしかすると日本の保存であるのでは・・・という思いが芽生えました。
ワンネスとは違った、ワンワールド、
単一化された価値観の中で、消されてしまう日本の特性。
日本の信仰や神々、水や土地、植物や種子、
そして、日本人の肉体と心を邑に保存する意味があるのでは・・・と思ったのです。
これは、一箇所だとは思いません。
複数存在していくはずです。

いずれ、その保存された日本は、また再生すると思います。
いつかはわかりませんが、必要ならばそうなるでしょう。

この邑は、僕が作る必要はありません。
誰でも良いと思います。
条件がそろい、自分の使命だと感じる人が為せば良いと思います。

僕には、技術も財力も、土地も何もないですから、
どうなるかわかりません。
それに、ここに長々と書いたことは単なる妄想かもしれません。
何も意味のあることではないかもしれません。

ただ、一度は自分の考えを文字に起こす必要を感じていました。
そして、僕はナガレに従って生きるだけです。

道教の無為自然とは、何もしないで身を任すという意味ではないと思います。
それは、ナガレに従って、一瞬一瞬を意識的に生きるということで、努力を怠らないという意味でもあると思います。

このブログは10人程度の読者を対象にしています。
その中でも、2,3人の人に理解してもらえば良いかなと思います。
人には、それぞれタイミングと時期があります。
うまく合致することは簡単ではないですし、僕が正しいわけでもないと思っています。

とりあえず、今の時点で書くべきだと感じたことを記録してみました。

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