巡禮セレクション 29

2015年10月31日

神の使いとしての人間 


これから書こうと思うことは、以前から経験値として持っている持論でありますが、あえて文字に起こす必要もなく、必要のある場合に都度、口頭で伝えることがあった程度の話です。

しかし、○○○さんの伝えられるように瀬織津姫商標登録の件もあることなので、それに付随することなので記録しておこうと思いました。
あくまで、僕の個人的な考えであり持論の域を越えません。


世には、神の使いと自負する方々がいらっしゃいます。
神社の神主さんの場合は、別として、それらの方は、ある神のお告げやメッセンジャーとして世の人に伝えられ、時には信者を集めます。

僕は、そういった神の使いになる人の存在は否定しません。
しかし、神の使いというのは、人間にとってかなりハードルが高いように思います。
従って、多くの場合が信じるに足りない人達です。

その理由は、
神の法則と人間の法則は違っているからです。
一つの分かりやすい例は、経済です。
神は経済原理で動いていません。しかし人間社会は経済原理で動いています。
よって、神のお告げは、経済を無視したものである場合があります。

聖書には、「金持ちが天国に行くにはラクダが針の穴を通るより難しい」とあります。
神の使いとして生きることは、時に経済を無視した生き方であり、それは食べずに生きられない人間には難しいこととなります。

特に家庭を持ち家族を養わなければならない者、子を持ち教育にお金を使わなければならない者には特に困難です。

神の使いとして、ある人の魂を救わねばならない時、その時は対価として金銭を要求することも可能ですが、毎月定期的に、その魂のために働けるわけではありません。必要な時に必要なことをするだけです。
しかし、人間社会においては、毎月決まったお金を納め、日々の糧を得る必要があります。

そこで、人間は、その糧を得るためにお金を得られる状況を作り出そうとします。
それは、もはや救済活動ではなく経済活動になるのです。
信者を増やし定期的な会を開き、必要でもない講座やイベントを開いてお金を集めます。
神には関わりのないことです。


神のメッセージとはいつくるかわかりません。
それにそなえるには、一人身で浮世離れした生活をするしかないようにも思います。
だから、ぼくは有料で神の使いを自称する人は、殆ど信じていません。
日々の糧を得る職業を持ちながら、他方で自分の余暇を犠牲にして人々を手伝ている方は、信頼に値しますが、その中でも、言動や行動によって信じられる人かどうかを見極めていきます。


でも、世のヒーラーという職業の中には必要性を感じる存在もいます。
例えば、ある物質、パワーストーンやアロマなどの素材を販売して、それに付随した形で、アドバイスや知識を授ける場合は、有効だと思います。
品物を購入するかは、消費者の自由ですし、その消費者の目的は、商品の奥にある内面的な問題解決です。
そこに的確ばアドバイスを伝えられるのは、魂の救済に繋がりますし。商品に対する対価は正当なものです。


今の時代は、特別な時代です。
この時代にうまく光を届けるために手伝うべく肉体を受肉した魂が存在します。
しかし、反面、これは重い地球の重力に囚われ苦悩するリスクも背負っています。
これを緩和するためにヒーラーは必要な存在だと思います。


ある使命を持った魂は、手伝おうとして重い負の力に囚われていまった魂を救うべく活動しているものがいます。
彼らは、自分の星に所属する、いわば自分の星と同じ出身の魂を癒し救済する活動をしています。
ゆえに、現在様々なグループがスピリチュアルと称して活動しています。

以前、○○○さんが★★★さんとUFOを見たと記事で書かれ、それに対し僕は★★★さんは宇宙人なんだよ。というコメントを書いたことがあります。
これは、そういった意味を込めてコメントしたものです。

★★★さんの講演会に一度参加しましたが、参加者は、やはり内面に傷を持っている人が多いように思いました。彼らは瀬織津姫信仰というより、瀬織津姫を通して癒しを求めていたように感じます。
でも、魂の救済者は、その使命を自覚せずに暴走することも多々あります。
この世で精神活動をするということは、なかなかに難しいものです。

また、世の中には、そういった魂の救済やスピリチュアル、または宗教を悪用する権力者も存在します。
僕は、今の神社ブームやスピリチュアルブームも時代性を利用した権力者の仕業ではないか・・・と疑っています。
事実、過去に起こったニューエイジブームもベトナム戦争における意識操作であったようです。

このように精神世界を生きることは重要ですが、無防備な魂は、別の問題を引き起こしてしまうリスクがあります。

自分の内面を常に観察し、神とは何か?人間とは何か?自分とは何か?というような問を常に持ち続ける必要があると思います。


因みに、これもわざわざ書くこともない話なのですが、
僕の理解している神とは、
というか神という定義が広すぎて一言では誤解してしまうのですが、日本語の神という意味は、多分、人間の力を越えたものです。
ゆえに、普通の人間でありながら、打撃の神様や、バスケットの神様が存在し、昔は、武芸に長じたものを鬼神のごとくと称したのです。

そして、神と創造主は多分、似て非だと思います。
神とは、法だと僕は思っています。
これは、理(ことわり)という言葉でも良いです。
万物は、この理に適って動いており、生じていきます。
そして、この理から反すると祟りが起きるわけです。

だから、神社の前でいくら祈っても理に訴えたところで叶いません。必要なのは、理が動く因を作ることです。
そして、その動かすエネルギーが眷属なのだと思います。
龍は線のエネルギーです。(○○○さんが考察されていたように龍の姿はイメージでしかありません)
祈りの時、人間が発動元となり、眷属というエネルギーの方向性を指定した時に、理は発動するわけです。
ただ、眷属には、動物霊も含まれるため、というか混同されています。むしろこっちのほうが眷属に相応しいのかもしれません。
霊もまたエネルギーです。
そして、我々は、時に霊と神を混同してしまいます。

先祖を神として祀りますが、これは霊です。
霊は祀ることによって人々の祈りのエネルギーを得て活動するものと思います。
眷属霊は、この神社で手を合わす祈りを受け、願いを叶い対価を求めます。

先祖霊は、祀りにより念のエネルギーを得、存続し願いを叶えたり対価を求めたりします。

時には、この念が、別のエネルギー場としてパワーを生むことがあります。
これが信仰の力です。

例えば、安倍首相が亡くなって死んだ後、神社に祀って参拝者が祈りを捧げたとします。
そして、ご利益があったとし、また参拝者が増えます。
しかし、このご利益は安倍首相のおかげではありません。
一つは、思い込み。そして、もう一つは、祭祀者や心ある参拝者によるポジティブな念が陽のエネルギーとなって、その神社の物に磁化した結果だと思います。
つまり神の御神徳ではないのです。
これが陰陽道のいうところの呪(しゅ)です。

呪とは、原因に対し、第三者もしくは当人が、ある原因と思われるものにたいして因果を結びつける結果です。
よって、それが正しいかどうかは、その人によるものなのです。


いらぬことを長々と書きました。
僕は、神の存在を信じています。
ただし、今に残る信仰をすべて支持すものではありません。
高等な存在と高等な次元も信じていますし、目に見えない世界もあってしかるべきと信じています。
しかし、それらを証明するには我々の意識は、あまりにも乏しく誤解も多いと思っています。

今回の話も、そんな低い僕の意識が導き出した解なので、正しいかどうかはわかりません。おそらく誤解のほうが大きいでしょう。

しかし、そういった自分なりの解を求めることが大切だと思っています。

今回は、書く必要もなかったかもしれませんが、自分のために文字に起こしておきたいと思います。
後半は、特に今回のテーマと逸脱していますので、流しておいてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?