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巡禮セレクション 48

2013年11月20日

大物主と倭大国魂


日本書紀の崇神記によれば崇神5・6年に疫病が流行り、死亡するものが多く、百姓は流離・反逆し、世情が不安定となった。

天皇は御殿に祀っていた天照大神と倭大国魂の二神を、豊鍬入姫命(とよすきいりびめ;崇神の娘)と渟名城入姫(ぬなきいりびめ;崇神の娘)とを御杖代として別々に祀ったがうまくいかなかった。

神浅茅原で倭迹迹日百襲姫命が神懸かり、大物主神を祀るようにとのお告げを得、さらに、天皇と臣下が「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」という同じ夢を見たという。天皇は広く探させ、茅渟県の陶邑に大田田根子を見つけた。

大田田根子を祭主として大物主神を祀り、長尾市を祭主として倭大国魂神を祀ることで、疫病ははじめて収まり、国内は鎮まった。

とあります。


よくニギハヤヒ=大物主神=倭大国魂神という話を聞きますが、日本書紀を信じるなら、少なくと大物主神と倭大国魂神は別神だということがわかると思います。

また、この二神の祟り神は、その神の末裔、いわば神からつながる血を持った祭主によって鎮まったわけです。
そうするとニギハヤヒの物部がこの血筋に関わっておらず、この二神は、ニギハヤヒでも無いということになります。

すなわち、論理的に考えるなら日本書紀を信じる限り、
ニギハヤヒ=大物主神=倭大国魂神は、嘘です。

倭大国魂神の子孫、磯長尾市は、大倭直の血筋でその始祖は、倭宿禰こと珍彦です。
そうすると倭大国魂神は、珍彦のことになります。

余談ですが、磯長尾市は新羅の王子の天日槍の来日に際し、審問のための使いを命じられているそうです。


大田田根子の祖は、今までみてきたとうり、大物主神です。

さて、最初崇神天皇の宮殿には、天照大御神と倭大国魂神を祀っていました。
しかし、世がうまく治まらず、その理由は大物主神を祀らなかったことによる祟りでした。

最初、天照大御神と倭大国魂神を同祭したことが問題と考え、宮中から出しましたが、天照大御神を祀る豊鍬入姫は問題なかったが、倭大国魂神を祀る淳名城入姫は、髪が抜け痩せ細り、倭大国魂神の祟りを受けます。

二人の姫は、崇神天皇の娘であり、祀る神の血筋を持つかどうかに成否が関わっています。


そう考えるなら・・・

神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命の父は、
古事記では大物主神、
日本書紀では事代主命となっています。

もし、媛蹈鞴五十鈴媛命の父が大物主神ならば、
崇神天皇には、大物主神の血が流れており、
大田田根子を探す意味がありません。

そう考えると媛蹈鞴五十鈴媛命の父は、事代主命でなくてはならず、
大物主神と事代主命は、同神ではないということになります。

もしくは、大物主神と事代主命は、同神であるが、
崇神天皇は、神武天皇の血が流れていないということになります。
崇神天皇以前の天皇が架空の存在を疑われている限り、それも否定できません。

この二つの可能性を考えなければいけませんが、ややこしいので、まずは神武天皇と崇神天皇はつながっていると考えておきます。


となると、大物主神は誰なのか?
一番、疑わしいのは、兄磯城です。

エシキ、オトシキの本拠地は、三輪山の麓です。
このあたりを磯城と呼びます。
崇神天皇は、ここに磯城瑞籬宮を築いています。

天皇家は、この磯城をまず征服したのだと思います。
しかし、それ以前に三輪山は聖地であり霊山であったと思います。
それを司祭したのが、代々の磯城の首長です。
おそらく、その時代の信仰は、先祖が死ぬと山に戻り、
聖なる山は先祖の霊地であり、その霊が土地の守護神になると考えたと思います。

すなわち、磯城の神、三輪の神とは磯城の首長である、磯城彦のことだと思います。
魏志倭人伝では、多くの倭の国の高官の名は、ヒコだと明記してあります。
おそらく、そのヒコは、王と同じ意味であり首長であると思います。

崇神天皇は、支配後、神武天皇の盟友倭大国魂と天照大御神の霊は祀りましたが、磯城の神を祀ることはしませんでした。
だから、その土地神は祟ったのです。


大物主神が磯城彦だという指摘はネットの中でも見受けられますが、理にかなっていると思います。

エシキは殺されましたが、オトシキは神武に恭順し磯城県主として存続していきます。
欠史八代の皇后は、磯城氏の女を妃としますが、エシキの祟りを和らげる意味もあったのかもしれません。
それほど磯城王国は巨大でエシキは偉大な王だったのだと思います。
わざわざ、大田田根子を探したのは、大田田根子は、エシキの子だということですね。
だから、奈良ではなく河内まで逃げていたのかもしれません。

その母は、活玉依姫(陶津耳の娘)です。
もし、前に見たように陶津耳は三島溝杭耳であり、
活玉依姫と事代主命の間に
天日方奇日方、
媛蹈鞴五十鈴姫命(神武天皇皇后)
五十鈴依姫命(綏靖天皇皇后)
が生まれたのなら、

エシキこと大物主神を殺したあとに、
事代主命は、大物主神の妻、活玉依姫を奪い子を設けたと考えられます。

ちょっと、考えすぎでしょうか・・・

しかし、三島溝杭耳の存在がやっかいです。
陶津耳と三島溝杭耳はホントに同神なんでしょうか?
三島溝杭耳の大阪茨木とエシキの奈良磯城との距離感はどうなんでしょうか?
川を使えば以外と近いのかもしれませんが、距離はあります。

そこまで婚姻を結ぶほどの支配圏があったのかわかりません。
むしろナガスネヒコの生駒辺りのほうが近いかもしれませんね。

もしかすると三島溝杭耳と大物主神の間にナガスネヒコが居たのかもしれません。


あと、エシキが大物主神ならば、鴨との繋がりを見出さなければなりません。
これが難問ですが、
オトシキは、弟磯城黒速(おとしきくろはや)という名で、その子か孫か・・・
に磯城県主葉江がいます。
このハエが、八重になるという指摘があります。


とりあえずこの辺で一旦、思考を停めておきます。
もう一つの可能性もありますしね。

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