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ディオニュソス 前編

ここは、古都にある一軒のBAR。
武士が歩いていた時代に作られた人工の川にかかる小さな橋を渡り、細い路地に面した目立たない建物の階段を上がったところ、名刺大の表札の横にある頭を下 げないと入れないような小さな扉を開けると、そこにカウンターだけの隠れ家的なBARがひっそりと明かりを灯しているのである。


「いらっしゃいませ! あ、畑さん・・・」
カウンターの中から客を迎えたマスターの笑顔が、いつもと少し違っているような気がする。

畑と呼ばれた常連客風の男は、カウンターに座るなり、バーボンのロックを頼み、横の若い女性客をチラリと見た。

「あれ? ミワさん、お久しぶりです!」
畑の隣に居合わせた女性客の名を、彼は馴れ馴れしく呼びかけた。
マスターのいつもと違う、微妙な笑顔の理由がわかった。
マスターは、畑がミワに少なからず興味を・・・いや、好意を抱いていることが感づいていたからである。
しかしながら、そんなことを素振りに出すマスターではなく、それが微妙な表情に現れたようである。


「あら?畑さんお久しぶりです。」
ミワは、普通に挨拶をかわした。

この日のミワの前には、
フルート型のシャンパングラスに、
ワインレッド色を少しくすませたような鈍い色のカクテルが注がれていた。
名をディオニュソスという。
ブランデーとワインを混ぜたものに少しシャンパンを加えたカクテルである。
ブランデーもワインも原料は葡萄であるが、
ディオニシスは、ギリシャの神で、
葡萄酒の神だということでの命名であろう。

ディオニシスという神は、ローマのバッカスという酒の神だと言ったほうが聞きなれた名かもしれない。


「ミワさん、今日は何を飲んでいるんですか?」
畑は、興味津々で、というか何とか話がしたいという気持ちを溢れ出しながら問うた。

「これは、お酒の神という名のカクテルなんです。」

「へー、ミワさんはいつも神様と関係あるお酒を飲んでいるんですね。」
畑は、なんとかくらい付こうと相槌を打つ。

それを知らずか、ミワはマスターに顔を向け。

「マスターの守護神とも言うべき、日本の酒の神様てご存知ですか?」

マスターは、まさか自分に話題がふられるとは思わず、
少し怯みながら、考え込んだのち、
「お酒の神・・・良くわからないですが、初詣はいつも松尾大社に行きますが・・・
毎年ご利益をお願いしていますから、あそこが僕の守護神ですかね?」

ミワは、その返答に笑顔を返して。
「まさに松尾大社の大山咋神は、お酒の神なんですよ。
全国の酒造メーカーに仕込み水に松尾大社の神水を加えると良き酒ができると信仰されているのです。」

マスターは、偶然ながらなんとか体面が保てて胸を撫で下ろした。
ミワは、続ける。
「他にも、松尾大社の近くにある梅宮大社の酒解神こと大山祇神、これって大山咋神と名前も似ていますよね。
そして、旨酒の神と言われた少彦名神。それから奈良の大神神社の神なんかが有名ですわね。」


畑の記憶がふと反応した。
「あの、ミワさん大神神社の神て、例の大物なんとかいう神ですよね?」

「例て、何かのお話しましたっけ?」
いぶしがるミワにマスターが口を挟んだ。

「実は、失礼ながら前にミワさんが来られた時のお話を畑さんにしたことがあるんです。
勝手に申し訳ございません。」

「いえ、いいんですけど・・・恥ずかしいわぁ・・・」

「とっても面白いお話でした!」
そう喜ぶ畑に対して、

「でも、畑さん、私のここでの話は、単なる妄想にすぎないし、
あまり真に受けないでくださいね。お酒を楽しむための話題程度に思っておいてくださいね。」

「はい。大物さんのお話、お蔭で美味しいお酒を頂きました。
今夜も美味しい話題はないですか?良かったら何かお聞かせしてほしいな。」

「ミワさん、大物主の話には続きがあるとか言っていましたよね。」
これは、いつも面白い話をせがむ畑からの攻撃を反らすためかもしれないが、
マスターも珍しく畑のリクエストに便乗した。


少し考え込むように間をおいたあとに
「じゃあ・・・」とミワは話始めようとした。
赤い唇がグラスに触れ、一口咽喉を潤すと、
明らかにミワの口調と目つきは変化していた。

「少し、ややこしい話になるけどいいわね?

第10代崇神天皇の時代、疫病が流行り、死亡するものが多く、百姓は流離、反逆し、世情が不安定となった。
という事があったの。
これは、日本書紀の記事だけどね。
天皇は天照大神と倭大国魂の二神が御殿に一緒に祀られていることが原因だと考え、
二人の娘、豊鍬入姫命と渟名城入姫とを御杖代として別々に宮中の外に祀らせたの。
だけど、天照大神を祀らせた豊鍬入姫命はともかく、倭大国魂を祀らせた渟名城入姫は、髪が抜け痩せ細りだめだったの。
そして、世も相変わらず不安定なままだった。

その後、倭迹迹日百襲姫命が神懸かり、大物主神を祀るようにとのお告げがあり、
天皇と臣下が「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」という同じ夢を見たという。
天皇は、茅渟県の陶邑に大田田根子を見つけ、そのとうりにしたところ、疫病ははじめて収まり、国内は鎮まった。 と記録されているのよ。

いい?大田田根子は、大物主の子であるとか4世孫であるとか言われているの。
最初、天照大神を祀る豊鍬入姫命は問題なく、倭大国魂を祀る渟名城入姫には問題あったわ。
これは、血筋の問題なのよ。

天照大神は、天皇家の祖神だから、崇神天皇の娘である豊鍬入姫命は、その血を引いているから問題なかったの。
しかし、渟名城入姫は倭大国魂の血を引いていないから問題になったのよ。
そして、祟りの原因は大物主にあったため、大物主の血を引く大田田根子を探す必要があったわけ。
ちなみに、お告げにあった倭大国魂を祀らせた市磯長尾市は、大倭直の血筋でその始祖は、倭宿禰なの。
要するに神は、その血筋を引く者によって祀らないと祟る存在なのよ。」


いつもの事ながら、話に入り込んだ時のミワは別人のように一気に語りかける。
その表情を見ながら、畑は、彼女をどこか巫女のようだと感じるのであった。
普段は、お淑やかで物静かな印象を醸しているミワであるが、
いざ神の話となると、すっきりと綺麗な二重の瞼に黒い瞳がキラリと光をおび、
優しいながらもいささか目つきが鋭く威厳さえ感じられる。
そんなミワの表情がまた、畑には魅力的であったのだ。

「ねえ、畑さん、これってどういうことかわかる?」

ふいに話を振られ、話を聞きながらもミワに見とれていた畑は、われに返り記憶を反芻しながら、
「じゃあ、大物主は、大田田根子の一族の祖神で、倭大国魂は、大倭直の祖神と・・・てか倭宿禰ということになりますね?」

ミワはにっこりして、
「そうなの。倭大国魂は、倭宿禰だと考えるのが自然ね。倭宿禰は、初代神武天皇の東征の折に道案内をした椎根津彦、元の名を珍彦という神だわ。
また、倭大国魂は大国主命のことだという説があるけど、この理屈でいうと別神ね。
そして、大物主神も、大国主命の別称だというけどこれも違うわね。
不思議だけど、大物主神=倭大国魂という説があるのだけど、今の理屈とわざわざ別に祀っているのだから、これはありえないわね。
さらに、大物主神=ニギハヤヒという説もあるけど、大物主祭祀にニギハヤヒの子孫の物部氏は関わらなかったのだから、この説もおかしいわね。
でも、後に物部氏は、祭祀にも食込んでくるから大物主祭祀を簒奪した可能性があるかもしれないわね。
どちらにせよ、最初は、大物主神も倭大国魂もニギハヤヒも同一神ではなかったと思うの。

ここで、大物主について見てみたいと思う。
ややこしい話だけど、畑さん、大丈夫?」


畑にとっては、随分とややこしい話であった。
なにしろ聞きなれない神様の名前を列挙され、さらにその子孫の名前だとか、同じ神だとか違う神だとか言われても、
畑には、名前が違うのだから全て違うのが当然だと思えてしまう。
ここで、ミワが畑に注意を向けてくれたのは、幸いだった。
これで、少し気持ちに余裕ができた。
畑にとっては、話の内容よりもミワの話と表情を見ていたいだけなのだが、それでは、あまりにも無礼であり、できるだけ意味を理解しようと努力はしていたので、思いのほか緊張していたのだ。

束の間のブレイクに、
畑はバーボンをお代わりした。
そして、再びミワの話に耳を傾けるために、
「神様は、その血筋を引く子孫が祀らないといけないのですね。
大物主さんは、その血筋を引く大田さんをわざわざ探したのだから、天皇家やその近親者には血筋を引くものがいなかったわけですね?」
とミワの話を反芻し話題を戻した。

「それが、面白いことなんだけどね・・・・ふふふ」
ミワは、少し悪戯っぽい表情で再び話始めた。


                つづく

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