巡禮セレクション 41
2015年11月23日(月)
出雲以前の縄文人
徐福(天火明、スサノオ)の孫、村雲が丹波から海一族(天一族)の一部を引き連れ、大和の笛吹に移住。
出雲の事代主の子、クシヒガタの妹、タタライスズ姫と婚姻関係を結び、大和王朝を築いたというのが、出雲王家の伝承です。
クシヒガタが、母(三島溝咋姫)の故郷摂津国三島から鴨都波に移住し父の霊を祀る鴨都波神社を創建したと伝承されていますが、実際、鴨都波神社の近くには、弥生時代の鴨都波遺跡が残っています。
ということは、伝承を信じるなら、大和王朝は弥生時代からの時代設定になります。
ところが、考古学では、神武天皇が大和王朝を築いた橿原には、縄文時代晩期の遺跡が残っており、ここは西日本を代表する遺跡だとされています。
で、僕はこの縄文人が出雲族なのかどうか?を知りたいと思い、橿原考古学博物館へ行ってきました。
その時の記録はブログにアップしています。
(七色堂「飛鳥資料館と橿原考古学博物館見学2」参照)
結果、確証は得られませんでしたが、出雲族の渡来以前に縄文文化は花開いていたというのは事実だと思います。
当時の中心は、おそらく長野県、関東、東北だと思います。
そららの地域の縄文人は、居住環境から爆発的に人口が増えたようですが、増えすぎた人口を養う食糧事情がついていかず、衰退していったそうです。
そういった東日本の社会とは反して、西日本の縄文社会は、徐々に増えていったようですが、この時代に沿って出雲族の活動が重なってくるのかもしれません。
従来の縄文生活から、大陸由来の生活様式が時代にマッチした可能性があると思います。
出雲王家の話によると縄文時代は、殆どが出雲族だったと言います。
この言葉をそのまま信じることにはいきませんが、出雲族の影響は大きかったのだと思います。
やがて出雲連合国が生まれると、大国主をリーダーとする社会が生まれていったのかもしれませんが、各地には、やはり宇佐族や名草戸畔といった首長をリーダーとする村々があったのだと思います。
ただ、そういった別村や別国でも、共通する信仰があったのは、遺物から感じ取れました。
それは、出雲ではいわゆる幸神と呼ばれる信仰だったのだと思います。
ただ、彼らは何物だったのかは、今のところ知るすべはありません。
諏訪で建御名方命と戦った、洩矢神のような存在だったのかもしれません。
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