ピアニストという蛮族がいない
解説に従えば、この作品の芳ヶ浜国際ピアノコンクールは浜松国際ピアノコンクールがモデルであり、ピアノを持っていないピアニスト風間塵はラファウ・ブレハッチであるという。
どっちも知らん。
知らんので、自分が知っている知識に自動変換される。
すると曲はショパンである。評を二分するような型破りなピアニストということであれば、私の中ではスタニスラフ・ブーニンである(でなければ羽生善治かダウンタウンだ)。ということは芳ヶ江国際ピアノコンクールはショパンコンクールである。
かくして物語の中で風間塵の名演奏が流れる度に、それがバッハであろうとメンデルスゾーンであろうと、1985年のショパンコンクールのブーニンのあのタッチで 『革命』 の" タターンターン!" が鳴るのである。
(ついでに言うと、審査員の美枝子が出てくるたびに、中村紘子の怖い顔が思い出されるのである)
うぅ、我ながらなんというレパートリーのなさよ、と情けなくなり、読んでいる途中でYouTubeでピアニストの名演奏を聴いて補ってしまった。
コンクールの始めから終わりまでを、『キャノンボール』のごとく、いやそれが古ければ『スティール・ボール・ラン』のごとく、驚くべき疾走感でもって描くだけの作品である。
それなのに、上記のごとく音楽に詳しくない自分でも泣いてしまう。それもストーリーに泣くとかじゃない。演奏がされるたびに泣いてしまうのだ。
自分が完全にコンクール会場に連れていかれるのである。
スタアも一人ではなく主人公も誰だか分からないほどである。恩田陸はそれを書き分けるのなんの。全員の演奏が違って聞こえるのだ(自分の中では全部ブーニンだけど)。
普通この手の勝負を描く作品(漫画に多い)は、当然のことながら「誰が勝つか?主人公は勝つか?」が大きな問いとして与えられ、読者はそこにやきもきするが、
まあ。まあ、まあ、
そんなことはどうでもいいのである。早く次の風間塵の演奏を「聴き」たかったのである。(そもそもみんな仲良しになっちゃって、そもそも勝ちにこだわっていないし)
それだけじゃないんじゃないだろうか。ピアノを弾く人であればきっと、読み終わってすぐにピアノを弾きたくなって仕方なくなってしまうんじゃないだろうか。だって、、(ネタバレにも関わりそうだから以下略)。
音楽がなくても人は生きていける。同時にまた、ほとんどの人が、音楽なしには生きていない。音楽以外にも、小説やお笑いやスポーツといった、余剰の行為が、私たちの生活を彩っている。だからその余剰の彩りに色々な程度で従事する人々ががいる。
僕はピアノは弾かない。だが、
じっとしていられなくなってきた。自分にも行くべきステージがあるようだ。
すげーな、風間塵。
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