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わたしの読むスタンス

こちらに参加します。

・・と言いながら、 #呑みながら書きました  にも参加です。後夜祭ですからね。(ハイボールにがいー!)

酔っていると、見出しの写真まで適当なことになるのである。



基本、風呂場で読む。ながらが好きなので、というか風呂に入っている間なにをしたらいいかわからないので(これ、ダメな人です)、本を読む。

温泉などに行っても、大浴場に行く意味がわからない(意味とか言っている時点でだめです)。部屋の風呂で、じっくり本を読むのがいい。


だから時間がかかる。のぼせる。だけどキレがいいところで終われないといやだ、ってんで、章の終わりまでは読む。たまに、長い章にぶつかることがある。命をかけての入浴、読書が始まるのである(本当にダメな人です。決して真似はしないように)。


読書はやや義務感がある。自分は読書量が足りていない、という自覚があるためだ。


次に読む場所としては電車である。風呂の話を書いていて、あ、電車もだ、と思ったので、電車の話もするのである。この手の話は3つくらいの場面があるとよいので、あと1つも書いている間に思いつくはずである。はずである。つづける。


車はだめだ。酔う。飛行機はオーケー。でも離着陸時はだめだ。酔う。電車はいい。あ、でもJR北海道はなんか酔う。ええっとー、地下鉄とかそういうやつだな、やっぱり。(ハイボール、まだ飲みきれていない。苦い〜)


ただ、最近、ライバルが現れちゃったのよ。YouTubeだ。あるいはメールとかツイッターを含めたスマホ、ね。

YouTubeはいかんのである。つい先日まで、イヤホンさしてテレビだの動画だの観ている連中を、「なんじゃこいつらあ」と時代遅れのおっさん目線で観ておったような気がするが、いつのまにやら歩きながらも動画を聴いておるだめだめ人間になって、バッテリーがキレようもんなら、あるいはイヤホンがキレ(断線)ようもんなら、「おんどりゃあこりゃあ」とワレがキレるほどの、これってやっぱりダメな人なのである。


おかげですっかり髪、神、紙のほんを読まない。「かみ」と打って「紙」さえ真っ先に出てこん始末である。

まあそれでもバッテリーが切れたり、なんかやっぱり読もうかなーとか思って読むことはある。大丈夫。常に本は鞄に最低一冊入れてある。読む気は満々なのである。空き時間の中で読むかもしれないという一縷の希、望みにかけてはいるのである。「希」という字が真っ先に変換されて、なんか、ときめいたのである。


でもなかなか読み進まんのである。まず、どこまで読んだっけ、とそっからである。まとまった時間を取らなければ、このインデックス作業に大半を使い、探り当てたところで次の駅なのである。読みづらい、頭に入ってこない本なんかを選んでしまった日には、そういうことになるんである。


たとえば、外国人の作品の短編なんかは、なかなか頭に入らん。小説のほうが頭に入らない。数学の本ならスイスイ読める。興奮してしまう。

「何が??」という問いが自分の中になければ、積極的に情報を頭が取り入れてくれないようだ。おかげで小説は、妙に気になることがあると、その情報を補うべく急に好奇心が湧くので、遡って読むのである。女の人がエライことになったときは、そりゃどんな年齢・容姿・癖・ストッキングの種類の人かを、真剣に補わなければならんのである(ストッキング情報はあまりないんだけどね。手抜きはいけませんぞ)。


かくして、推理小説を後ろから真っ先に読むようなやつとは口をきかん!と日頃から豪語しておるくせに(うちの妻だよ、妻)、己もまた、似たようなことをやっておるのであった。いかん、いかんのである。


トイレに言った。パリス・ヒルトン好き。


書いているうちにアイディアは浮かぶ。本を読む3つ目の場所である。そう、私は書くときにアイディアが爆発してしまうのだ。だからアイディアには困ったことがないが、それを整理するのに苦労しているだけなのである。


芦田愛菜かわいい。


3つ目の本を読む場面は、娘がらみだ。夜、寝る前の朗読である。娘は本を読むことをせがむ。どうせ読めるくせに。3歳で、読める字はかぎられてはおる。だがうちにある本のほとんどは丸暗記しているのである。読めるのである。本を読ませると、一見難しい言葉も読んでしまう天才少女のように見えるが、あれは字を読んでいるのではない。

ダディが延々読まされつづけたものを、耳コピしただけである。落語の三べん稽古みたいな、習わぬ経みたいな、耳学問みたいな、どれも違うな。ダディの努力の結晶である。泣けるな。ダディとは呼んでくれんけれど。

いや、ほんと大変なんっすよ。『おしりたんてい』デビューを果たしてしまって、その前は(今もか)ベネッセのこどもちゃれんじ(お古です)をだけど、平気で連続5へん(5冊ではない。同じ1冊である)は読ませるのである。どっかおかしいか、天才なのである(同じことか)。

さすがに5へんはきつい。でもこどもちゃれんじよりは『おしりたんてい』のほうが親としてもまだおもしろい。ダディが推理小説を書く以上、娘がたんていものに興味を持つのは必然なのである(じゃあ俺の小説読め)。

妻が耐えかねて、自分の声を録音してしまった。ああ、これでもう朗読を繰り返さなくて済む。そういう問題じゃない、と教育評論家は言うだろう。わかっとるわい、わしを誰だと思っているんだ。だが、音源をかける。これが味がある。結局娘ひとりでは読まないので、娘と私が妻の朗読を聴きながら、その朗読のペースをガン無視して、ページを繰るのである。

だいたい妻の朗読も、さんざん娘の邪魔が入るから、最後はキレておるのである。私はそれを聴くのが好きな変態だから、やっぱり音源を聴くのはただしいのである。(おしりをさがすのはやらなきゃならないけれどね)。

でもでもでもでも、それだけじゃないのだ朗読は。ふっふっふっふふが4つ。娘が寝ないのである。八時には寝かせるというのがダディの偉大なる計画なのであるが守る日はないのである。エライ興奮している日も多いが、娘が寝ないことには、毎日noteを挙げるというダディのノルマを果たすのが厳しくなってしまうのである。

そこで次なる朗読があるのである。ふっふっふっふっふふが5つ。

それは、娘の読みたい本ではなく、親が読みたい本を読むのである。妻はなんか医療安全だとか社会学だとか公衆衛生の本を朗読する。私は楽しい。私はアイロン台だと思っていた『カプラン精神医学』が読み物だということを知り、それを朗読するのである。海外の症例は独特な書き方がされており、これまた夫婦で学びとなるのである。娘は退屈し、一時的に暴れた後、意識を失っている。


ふぅ。マナカナはカナが好きです。まとめはないよそろそろ酔いも冷めはじめるよnoteはなかなか頭に入ってくる記事がなくて、スキもつけなくてすみませんがスキをつけているのはそれでも例外的に頭に入ってくる記事でして中には例外なく読んでしまっている人もいますでもみなさん読んでますよさよなららららら



#わたしの読むスタンス   #呑みながら書きました



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