【小説】 『黒豹』



 まとわりつくように人をぬらす雨だった。
 煙った潤いが立ち込めると、ぬめっとした。
 まだ明るみが隠れた厚い空の下で、あいつは立て膝をついて背中を丸めそこにいた。
 手が長い。肌は滲み光って、輪郭を浮かび上がらせる。黒い髪が皮膚に張り付く。白いサマーセーターと黒いパンツ姿。
 石塀の直角と、スズランやユリが咲く家の庭の間の路の脇に、ひっそりと、ただたたずんでいた。近所のおせっかい焼きがネコにやったツナ缶の残骸が角に捨てられていて、いや、もしかしたらそれを漁ったのはその男なのかもしれない、とわたしは本気で思った。
 視界に彼が入る。そのまま脇をつうっと抜ける。だが抗いがたい重力に引っぱられ、刹那目をそちらに寄せる。
 彼はわたしを意に介さなかった。わたしの視線を捉えていながらも、すがる目つきもせず、死んだような目もせず、ただただ関心を持つこともなくもう他所を向いてしまったのである。わたしが彼を通り過ぎなかったのは、それが理由だ。
 引き返した。なんだか妙に、自分の靴の響きを感じた。傘を閉じ、鍵でマンションの自動ドアをスライドさせ、自分の部屋の玄関まで行く。
 どの傘にするかをずいぶんと考えてしまった。結局透明なやつを選び、また足音を鳴らして廊下を進んだ。
 ふと、戻るまでに彼があの場から消え去っていやしないかという思いが頭をよぎった。その途端、身の芯が締めつけられるのと、苦々しさとを覚えた。
 小走りであったことを認める。彼は同じ場にしゃがんでいた。わたしは早足から、徐々に勢いを落とし、彼の息づかいが感じられる距離にいたときは、恐るおそるになっており、近づききる前に立ち止まってしまった。
 片手では開けない傘だった。バッグと自分の傘を持った左手を使うのはややてこずり、少しの間頭上から注ぐしずくを浴びねばならなかった。やっと開いた傘を手渡すときに、刺すような恐怖が襲った。傘を受け取ってもらえなかったら、口から違う色の空気を吐きそうなほどにみじめな思いをすることを確信したから。
 ひとまわり大きな傘を選んだのは、無意識に受け取られない場合を計算したのかもしれなかった。座っている小柄な男に、傘を開いたまま置いてかざしておけば雨よけにはできそうに思われた。でなければ、使わぬもう一本を持って出勤することなどできないから、駅に行くまでにそれは捨てただろう。
 男は傘に気づくと、静かに手を差し伸ばして受け取った。それからそれを観た。ありがたさに飛び上がるのでもなく、疎むのでもなく、すましたまま関心をその受け取ったものに向けたのである。
 わたしはそこまでをたしかめると走り出していた。その朝は、それがせいいっぱいであった。


 夕刻、バスターミナルの地面を踏んだ途端に、落ち着かなくなった。仕事であくせくしている間は、きれいに忘れていたのに。閉じた傘とアスファルトの組み合わせが閃かせたのだろう。あの男はどうしているだろうかと。
 窮屈な靴の圧を肌で感じ、走る気は失せる。いやそもそも急ぐ必要はない。あれは朝の出来事だったのだ。
 石塀に挟まれた、わたしの住むマンションまでの見通しの良い路に出る。風が直線で向かってきて突き抜けた。
 一歩ずつ期待は削がれていく。わたしはマンションに向かい合った家の庭の花が、なぎ倒れているのをぼんやりと見た。黒くなりかけた景色の中に、彼の姿は浮かび上がらなかったのだ。なにも驚くことではない。
 早く自室にこもって発泡酒を味わおう。鍵を差し自動ドアをスライドさせ、郵便受けにあったアスレチッククラブのチラシを捨てる。
 部屋に入ると白い壁を撫でつつ、慣性を止めずにキッチンまで直進する。着替えもしない。そうすれば、ソファーで嫌なことにずうっと思いを巡らせながら暗闇にひたるのを、回避することができるから。スーツの上に厚地のエプロンを重ねる。
 炭酸が喉を刺し、次いで胃袋に落ち行くまでをいちいち感嘆しながら、左手でフライパンをさばく。火は溢れるくらいなほうが景気づく。おかげでイカがよくはねた。義理で塩を入れた後、妙に食感を欲して黒胡麻を冷蔵庫から探し、食材の中にばらまいた。油がつやよく色を放っているうちに、皿に盛る。テーブルの上に運ぶ頃には、発泡酒の一缶は、ほぼ空いていた。急にエプロンが重くて煩わしいものに感じられ、洗濯機の方に放り投げる。ついでにソックスも足だけを使って脱いで放ると、早足で食卓についた。
 しなる前に火から上げた各々の野菜は、口の中で異なった固さを華やかに訴え出す。まもなく息をつき、やがて平らげた後の広々となった皿を見ることになる。わたしはこれだけで足りるのだ。
 皿を重ね、シンクに積むと、さっと水で流す。洗い終わって水を切ってしまい、手が止まったときだ。
 無性に、もう一本飲んでしまえという気になった。わたしは台所仕事で水を覚えたままの手で、冷蔵庫を開き、あと三本あった発泡酒の一本を取った。
 ベランダに出たくなった。ノースリーブの部屋着をまとい、サンダルをつっかけて飛び出した。
 小さな空間。コンクリートの壁と柵に仕切られている。そこににあるベンチにわたしは腰を下ろした。そこで安堵の息を吐いて、吸いかけたそのときだーー


 あの朝の男が、柵の隙間から見えた。


 わたしは呼吸を止めた。彼はマンションの敷地のぎりぎり外の淵、路のマンホールの真上で、顔をこわばらせてうずくまっていたのだ。
 目が合う。いや、見ているのは自分だけか?柵越しに、わたしのことはわかるのだろうか。
 弾かれるように立ち上がり、その勢いのまま柵を開けた。力を充分に込めたから、よく響いただろう。その意図は報われた。彼はこちらに目を向けた。眼球の光が失せかけている。
 
 迷ったり考えたりしたら立ち止まってしまったに違いない。だがわたしは彼の近くにまで行くことができ、その手を取った。電柱の灯りの下で重なると、わたしの手のほうが黒かった。
 わたしはその手を引いていくことにしてしまった。その意図を自分で測ることもできない。抵抗はされなかった。なびきもしなかったが。そのまま抱き上げてしまいたかった。彼の体格なら本当に可能だっただろう。
 路を歩く間は、手をつなぐのが恥ずかしくなり、隠せているかわからないが、ビニール袋を持ったほうの手で引いた。急ぎたかったが、背中を丸めて歩く彼は、わたしの期待するほどには早く動いてはくれなかった。
 鍵でドアをスライドさせるときに、拍動はひどく速まった。振り返らずにマンションの入り口をくぐった。さっさと部屋に入ってしまいたい。
 かくしてついに、わたしは男を連れ込んでしまった。困っていたようだからいいだろう、と言いわけをする。まず彼は玄関を上がって、じいっと部屋を見た。何を見ているのだろうかと一緒に視線を追ってみたら、彼はトイレのドアがどれか察して、そちらに入ってしまった。わたしは彼が視界から一時的に失せて、ちょっとだけほっとした。なにかしていないと気まずくなりそうで、キッチンに立った。
 先ほどはごはんを炊かずにアルコールで済ませてしまったので、炭水化物はレーズン入りのパンを出そう。あとはさっきとほとんど同じ、野菜を油で炒める。しょう油で味をつけ、ゴマは入れない。
 彼はしばらく出てこなくて、わたしは少し心配した。ゆっくりと食事の支度をし、体裁上自分の皿も用意して少量を盛った。
 やっと男が顔を表した。服の皺と渇いた泥が無視できない。わたしはだまってタンスを探り、恐るおそる、クリーム色のパジャマの上下を差し出した。男はそれに目をくれてから手に取ったので、わたしは彼を脱衣所に連れて行った。
 やがて着替えた彼が出てくる。わたしはテーブルの一方に座っている。必然的に彼はその向かいに座る。おもむろに。目が少し空ろだ。わたしは、分かるか分からないかの力ない合図を出し、食べるように促した。
 こちらを見ていた。視線が向き合うのに堪えかねて、わたしのほうから二度目の夕食に箸をつける。彼もその様子を見てから、真似をした。だが彼の食は進まず、二口で終った。
 やがて彼は席を立ち、遠慮なくソファーの上に横になってしまった。
 お腹が空いて困っているわけではなかったのか。あてが外れた。一緒に飲んでいる場合ではない。二人がここで一緒にいる理由をうやむやにでき、楽しくなれると思ったのに。
 彼は苦しそうな顔を一瞬見せた。だが後は目をつむってしまった。どこか悪いのだろうか。ことによっては救急車でも呼んだほうがいいのだろうか。だがわたしは自分本意な理由でそうしなかった。代わりに何かをすることにしよう。だがほとんど何も思いつかず、あてずっぽうで自分が使う痛み止めと白湯を彼に渡した。彼は促されるままにカプセルを服し、お湯を飲まされると、またソファーの上に頭をおろし、縮こまって目を閉じた。
 わたしは彼を見ていた。中途半端に離れたまま見ていた。寝巻きの布越しに、弧を描いた背骨が浮かび上がっていた。

 ーーわたしの特等席はあなた譲ってあげる。そこにいると、安らかだったようで、実は幸せではなかったような気がするから。

 彼はいつまでここにいるだろうか。ふと思って、彼の着ていた服を洗濯してしまうことにする。サマーセーターの内側に、淡く赤く滲んでいるのは血だろう。わたしはそれを洗濯機に放り込んでスイッチを強く押し、少しそのまま立っていた。
 なんだかとんでもないことをしたような気になりながらも、彼を手放すという選択肢だけは、そのときまったく選択しなかった。


 彼が住み着く。彼は静かだ。じっとしていることもあれば、空中の何かをじっと眺めていることもある。うろつきかたが大人しく、前触れもなく位置を変えられると、わたしには気配を察することはできない。わたしが料理に没頭していて、皿に盛りつけようと振り返ると彼が立っていたりして、ぶつかってしまったこともある。まあそれでも、彼のほうは気にもとめないのだが。彼の行動は少ない。寝る、起きる。座る。背中を丸める。まれにあくびをする。トイレにでかけいつのまにか戻る。出されたものを食べる。歩き回る、隅に潜む、わたしといっしょに壁をなでる、わたしに頭を撫でられるときにおもむろに首をかしげる。わたしが野菜を切るのを立て膝で見ている。出されたものを食べる。暑くなると水をあびる。
 わたしに服をぬがされると、そのままなすがままになる。わたしが抱きついたときは、わたしの頬を舐める。鼻から息を吸いこむ。わたしが口を近づけると、唇を舐めてくる。わたしの唇は渇いたうろこが張り付いているから、彼はそれを潤す。吸い込むような口づけはしない。ただ、よく舐める。
 わたしは裸にした彼をしばらく弄ぶ。わたしは服を脱がない。会社から帰って黄昏時からそれが始まると、わたしは彼を部屋が暗く染まるまでは触りつくす。やがて首の窪みあたりに何か悲しみにも似た愛おしさと、自分をかわいがりたい気持ちがこみ上げてきて、わたしは暗黒にまぎれて不格好に着衣を脱ぐ。脱いだものを放ってしまうことはできなくて、たたんでから布団に入るまでのあいだ、彼の顔は見ない。そのわずかな時間が、なんとなくみじめだ。
 わたしが近づければ、どこでも彼は舐めてしまう。ひとつひとつそれをたしかめていきながら、やがて少しずつデリケートなところをためしていく。彼はわたしのあらゆるパーツに対して常に平等だ。ただわたしだけが、その部位に応じた怯えと恥じらいを感じ、そのことを隠しつつ味わう。
 イカないようにしていた。やがてイケないのだと気づいた。するとイキたくなって求め、それを自分の体に願うようになった。すべてわたしの問題なのだ。それが躯の問題でないとすれば、わたしの心がけの問題だろう。だって彼は尽くしてくれるのだから。やがてわたしはコツをつかむようになる。彼の傷跡を指で探すのだ。右の背中のとあるところに斜めに走っているそれは、日に日に浅くなってく。目が利かぬ中で指を滑らせてそれを探り、摩擦の増した面を触りあてたら、恐るおそる撫でる。そうするわたしの力は日々増していく。彼の背面に周り、その傷にわたしの口をあてる。怖くないはずだ。もう。わたしはこの男に慣れつつあるのだから。彼はそのわたしの営みのすべてを、語らずに受け止めているのだから。それからまた彼を表に向け、傷をさすりながら彼を受け入れる。自分が何を考えているかは知られなくない。わたしの姿を見られたくもない。ただただ、信じ合って戯れていたい。
 その夜は雨が降っていた。ブラインドをしていても雷が光るのが分かった。首から全身に広がっていく熱した血の流れを、察されなかっただろうか。そもそもわたしはどんな色になるのだろう。紅潮するのだろうか。いや、いつもわたしだけが見えていなくて、彼にはわたしが見えているのではないだろうか。わたしはどんな顔をしているのだろう。また雷が光るのではと思うと、彼に背を向けざるを得なくなった。もっともっと闇がほしい。 


 雷の次の日から、わたしは不機嫌になった。その理由を言葉に表すのは難しい。いや、難しくはないが、まとめたくない。とにかく体から表に不機嫌が湧いてきてしまう。それでもう充分だ。
 彼はどうして冷静なんだろう。いつまでもこの二人の生活に慣れないのは、わたしのほうばかりではないか。彼のほうはというと、始めからこの箱型のコンクリートの景色に、調度品同様に馴染んでいる。
 わたしは彼に何かを望めない。ないはずだ。そんなことを考えてしまうと、こんなにしてやってるのに、という思いが掠めるから危ない。彼は、何の抵抗もなくここを居場所として受け入れたように、何の抵抗もなくここを出て行くに違いないことを、心に留めておかなくてはいけない。
 ならば彼にとってわたしはなんなのだろう?わたしたちの関係はなんなのだろう?それも問うと、今目に見えている情景のすべてが崩れてしまうような恐怖に襲われる。平皿の上に盛ったごはんの湯気の上がりかたにさえ八つ当たりしたくなって、わたしはカレーを上からかけてかき消し、こらえて彼に差し出した。
 いっしょに食べる。スプーンが皿にあたり、スライドしていく。わたしはつい、彼の挙動を見る。彼は自分の動作を続けている。おいしいのだろうか?キノコとタマネギが入っていると彼は残してしまうということは覚えた。あとは不満を示したことはない。とても喜んでいると断じることもできない。ただ彼は食べる。出された分を食べる。
 不器用そうに左手で持つ箸の、食べ物と口までの行き来をついつい見て、彼の表情をたしかめてしまう。わたしの目がつい睨んではいないかと気になったが、目が離せなかった。


 先のことを考えると、気分は暗くなる。考えたほうが良いのかもしれないし、それは忘れていたほうがいいかもしれない。だれにも言えないまま、わたしの心はその二つの極を行き来する。
 でも彼には「今」しかない。
 


 そんな生活を二年も続けた、ある秋の休日のことだった。
 わたしの部屋は一階で、ベランダは柵を開ければ外の敷地に通じている。
 その日、大柄の、目をニュートラルな大きさよりもやや見開き気味にした、好戦的な臭気を放った赤い顔の男が柵を開けて入ってきたのだ。その柵は外から手を差し込めば、外から開けることができた。わたしはベランダで下着を干していた。
 大柄の男は、開けていたベランダの扉から、わたしにタックルして体をまるごと室内に飛び込ませてきた。わたしは察した。この男はわたしをつけてきたのだと。
 驚いたはずなのだが、正直わけがわからなかった。ただ、真っ先にその男はベランダを後ろで閉め、カーテンを閉めた。荒っぽかったが、要領が良すぎた。それからためらわずにわたしに飛びかかってから仰向けになったわたしの腰の上に座るとまずわたしの顔を見た。それから冷静に、わたしの頬を平手で殴った。わたしの顔を睨む。その目的は、戦意を消失させることに違いなかった。男が目的を遂げるまで、抵抗すれば圧倒的な力でわたしに果てしなく暴力を加える、という意思表示だ。恐怖がわたしから力を奪った。
 次の瞬間であった。風呂場から出てきた彼の気配を感じ、わたしは横になったまま上目でその姿を確認した。
 彼が状況を目にしてから動き出すまでは、一瞬の迷いもなかった。真横に飛んでいるのかと思われるほどの前傾姿勢で突き進み、次の瞬間には彼の頭頂部が男の顔面にめり込んで、それでもまだ勢いが止まらず、彼は体をねじって背中を体当たりさせたのである。男は果たしてその事態を理解できただろうか。男の体がベランダのガラスを突き破って倒れた。その体に後から割れた破片が突き刺さって、男はおそらく悲鳴をあげたのだと思う。だが、彼は深追いしていた。男は体中から血を噴き出させながら、急いで立ち上がり、柵を開けて逃走した。彼は片腕を支えにして柵を飛び越え、男を追った。わたしは室内からその様子を見た。男が敷地を出た瞬間に彼は追跡をやめ、部屋までかけ戻り、わたしの前にきた。
 彼は、わたしを抱きしめる、ということはしない。ただ真横に来てくれる。わたしは泣いていた。だが、もしかしたら怖かったからというだけではないのかもしれなかった。まだ明るいが、今から彼を抱いてもいいような気がした。


 もう八年も彼と暮らしている。これからもずっとそうだろう。
 わたしは、彼がきっとわたしを守ってくれる、などとは確信していないし、そんなことは求めてもいないと思う。ただ、かつてわたしを守ってくれたという事実だけで、わたしは迷いなく彼を選んだのである。
 こいつの名前を、わたしはまだ知らない。


〈了〉


#2020年の健闘


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