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となりのせきはたけださん


(ファーストラヴの話にめちゃくちゃ触れていて、ファーストラヴのタグもつけていますが、これはポプラ社の『となりのせきのますだくん』の感想文です)



児童書にこういう丸っこくて意地悪でこだわりが強いヤツが出てくると、つい娘だと思ってしまう。頭を抱えたくもなり、愛着も感じる。これでいいやと思ったり、将来が思いやられるわいと思ったり。


…なんて書くと、ほのぼのとした話で終わりそうだけれど、まったくほのぼのと終わらせるつもりはないからね。児童書だからって容赦せず、どろどろに行くぞお。覚悟しろおー(誰に言っとんじゃい)。



この本が扱うのは「好きな子に意地悪する」っていうあれだ。ますだくんのせいで主人公のみほちゃんは、学校に行きたくなくなるまでになる。そんなみほちゃんの目から見たますだくんは怪獣として描かれる。


教師が見ていたとしてもますだくんの意地悪は、強く叱りつけるべきレベルのものではないだろう。でも大事なのは、される側がどう思うかだ。傷つける側に故意があるか、誠意があるか、なんて関係ない。

ますだくんが、折ってしまった鉛筆を直して返すために校門の裏でずっと待っていて、それを渡すシーンはこの本のクライマックスだ。これってよくある。暴力を振るっておいて、後でやさしくし、オキシトシンを出させまくるんだ。ヤクザのやりかただ。


これくらいの意地悪ならがまんして乗り越えるほうがいいという考えもあるだろう。昔はそうだったかもしれない。でも今は、それができない傷つきやすい人が多くいるから注意が必要だ。

乗り越えることができた人にはいい経験だし、乗り越えられなかった人にとっては、それはいじめだったことになる。ということは、意地悪を受けた子がそれを乗り越えたかどうかが誰かに観測された時点でかつての事象がいじめであったかどうかが後から確定されるわけで、それまでは、いじめでもありいじめでもない状態が存在する。

たとえばみほちゃんは「「ごめんよ」 と いって ますだくんが ぶった。」と云う。これ、本当にはぶっていないかもしれない。軽く肩を叩いた可能性もある。あるいはいつもの癖で、ちょっと強めに叩いてしまっているっていうこともある。でもみほちゃんがどう受け止めるかでその意味が確定する。

それまでますだくんは同時に怪獣でもあり人でもある。

なんと、シュレーディンガーのますだくんだ!



さて先日『ファーストラヴ』の感想文を書いた。「傷と克服と愛」というテーマが、『となりのせきのますだくん』とまったく同じだ。「たとえ好意によって近づいてくる相手であれ自分を傷つける」という構造だ。

私は、恋ってそういうものだと思う。たしかにDVをする人は困る。暴力を愛だと受け取るのも問題だ。でも傷つけることを「愛ではない」と呼ぶのは簡単だけど、その要素がまったくない恋愛になんて、果たして若いときに惹かれるだろうか?

初めの頃の恋って、傷つけられることの中に生まれるんじゃないだろうか。いつでもやさしい相手をすごく好きになるのって、どこかで傷ついた後じゃないか。


島本理生師の『ファーストラヴ』はなぜそのタイトルであり、それは誰のどのファーストラヴなのかという疑問については私はこう答える。

由紀は傷つけられる関わりを持った。父親を殺した環菜も傷つけられる関わりを持った。だから二人のどちらかの恋がタイトルに挙げられている候補だと考えられるかもしれない。でも違う。

「ファーストラブというものは…」という、抽象名詞としての初恋を述べているのであろう。その良し悪しに関わらず、それは傷つくものなのだと伝えているのだ。



席が隣になって傷つけ合わなかったら、恋ではない。



#読書の秋2020

#となりのせきのますだくん

#ファーストラヴ

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