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【短編小説】 微かな恐怖 1月の孤独
誰と一緒にいても、孤独、という時がある。
どうして世の中はこんなに寂しいんだろう、と、嘆息をつかずにはいられない。
2000年の1月、私は奇妙な精神状態に陥っていた。街にショッピングに出かけても、家族と食事をしていても、恋人と会っている時でさえも、私はいつもやりきれないほどの孤独を感じていた。
自分が本当に「生きている」という、実感が湧かない。例えば、他人の人生を、他人の体を借りて、仮
【縣青那の本棚】 冷たい水の中の小さな太陽 フランソワーズ・サガン 朝吹登水子 訳
これぞ小説、という、物語の出来栄えにハッとさせられた。
これが、やはりフランソワーズ・サガンをサガンたらしめる所以なのか。
バサッと切られるように、突然終わってしまった物語に、読後数時間経っても、まだ呆然としていた。
舞台は、パリ。そして自然豊かな地方都市、リモージュ。
主人公のジル♂は、洒脱な遊び人で、左翼系の新聞社で報道系の記者をしている。陽気で華やかな独身生活を謳歌していたジルは、エロイ
【縣青那の本棚】 海流のなかの島々 アーネスト・ヘミングウェイ 沼澤洽治 訳
ー上巻ー
世界を股にかけて人生を謳歌してきた男、トマス・ハドソン。画家としての名声は確立されているが、今は世俗を離れ、メキシコ湾流の中に浮かぶ島に腰を落ち着けて、自分の仕事に没頭している。
そのハドソンを、3人の息子たちが夏休みを過ごすために訪れて来る。長男の通称〝若トム〟はハドソンの最初の妻の子供、他の2人、デイヴィッドとアンドルーは2人目の妻の息子たちだ。
作家で友人のロジャーを
【短編小説】微かな恐怖 秋の空とせせこましい部屋、ティーカップに潜む何か
あんなに暑い日が続いていたのに、ある雨の日を境に、夏はどこかへ去ってしまった。
雨がやむと、途端に冷涼な風が街を包んだ。
夏の陽射しと熱気にうだっていた人々を突然我に返らせるようなその風は、大陸の遥か彼方で生まれ、狭い海峡を渡ってやって来ては、夏の間じゅう街に澱み続けていた湿った空気を遠くの海へ押し返した。
秋の風は、いつも私に、ある特別な感情を湧き上がらせる。その年の一番始めの秋の風
【縣青那の本棚】 停電の夜に ジュンパ・ラヒリ 小川高義 訳
3月の中旬から終わりにかけて、ジュンパ・ラヒリの短編集『停電の夜に』を読んだ。
このインド系アメリカ人の作家は、この初めての短編集で、ピューリッツァー賞を始め、アメリカの権威ある文学賞を総ナメにしたらしい。
表題作の『停電の夜に』の感想を以下に書く。
アメリカに住む、インド系の若い夫婦、シュクマールとジョーバ。二人とも親がインドから移民してきた二世で、アメリカで生まれ育っ
【長編小説】 初夏の追想 28
――守弥はパリで絵を描くうち、あるフランス人の画家から言われたそうである。
「君の絵は、クスノキ画伯の作品を彷彿とさせる」
と。有名な西洋画家であった祖父は、フランスでもよく知られていた。
ひとりだけではなかった。親しくなった日本人留学生の中にも同じことを言う者があったし、パリの画廊の目利きの画商や美術評論家からも何度となくそのようなことを言われるようになった。
守弥は、私に見てもらいたい
【長編小説】 初夏の追想 27
守弥がパリへ渡った翌年の、五月の初旬のことだった。犬塚夫人はいつものように休暇を開始するために、あの別荘を訪れていた。裕人も付いて行く予定だったが、仕事の都合で二、三日遅れることになった。
別荘地には誰もいなかった。その近隣では、向かいの建物に私の祖父が絵を描いているくらいだった。
犬塚夫人は別荘に着くと、裕人が到着するまで独りで過ごした。そのあいだ、連絡もなかったけれど、普段と違ったことは
【長編小説】 初夏の追想 26
月が変わり、東京の美術館で守弥の個展が始まった。
パリを拠点に活躍する新進気鋭の画家、ということで、多くの人が集まっていた。私もその人々の中に交じり、作品をゆっくりと見て回った。
その日は十六点の油絵が展示されており、そのほとんどは、風景と人物画であった。アルルであろうか、水辺の美しい景色が、優しいタッチで描かれていた。パリの女友達とおぼしき美しい白人女性の上半身の肖像があった。
なるほど
【長編小説】 初夏の追想 25
――今朝のことである。私はこの屋敷に到着してから初めての来客を迎えた。
昨夜その人のことを書いたばかりなので、言霊が呼んだとでもいうのだろうか、玄関の呼び鈴が鳴ったのに驚いて出て行くと、扉の向こうに立っていたのは、何と篠田その人であった。
「ご無沙汰しています」
屋敷に上がりながら、篠田は紳士らしい仕草で、被っていたパナマ帽を脱いだ。いまでもこの土地に別荘を所有している数少ない人士の一人で
【縣青那の本棚】 最初の人間 アルベール・カミュ 大久保敏彦 訳
『異邦人』を読んで感銘を受けたので、その流れで買い求めたカミュの、私にとっては2作目。オビに書かれてあるように、この小説が未完なのは書いている途中でカミュが自動車事故で亡くなってしまったからだ。それを双子の娘の内のひとりがまとめて出版したらしい。
カミュは幼少の頃、父親を亡くしている(確か1歳)。アルジェリアの葡萄酒輸出会社に勤める貧しい労働者だった父は、第一次世界大戦(フランス軍がドイツ軍をマ
【長編小説】 初夏の追想 24
その後、私は山を降りた。犬塚家の人々がそれからどうなったのかは知らない。
胃潰瘍の症状は、もうすっかり良くなっていた。祖父はいたわるような目で私を見、この先頑張るようにと言葉をかけて、送り出してくれた。
最後に祖父と交わした会話のことを、いまになっても私は細部までよく覚えている。
――出て行くときふと見ると、いつもの窓辺の画架に、まだ完成を見ない絵が架かっていた。それは犬塚母子の肖像画