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自分を大切にする旅を始める

「自分を大切にしなさい」って最近はそこかしこで言われる気がする。
なんなら私も言うし、私はわりとできている方だと思っていた。


我が家の食事を仕入れてくるのは私の担当だ。
私は料理が苦手で、よっぽど心に余裕があるとき以外は、包丁や鍋も握ることも、下手をするとレンチンすら家族に任せているので「炊事担当」ではなく、食材および弁当の「仕入れ担当」だ。

私は家族と二人暮らしをしており、弁当を買うときは適当に2種類を見繕って買ってくる。
家族がどちらを選んでもいいように、どちらも私がそこそこ食べたいものを。
とはいえ、家族も気にしいのため「ヤコさんが食べたいのはどっち?」と毎度訊いてくる。
いくつもある選択肢の中から買ってきているのだから、好きに選んでくれと突っぱねて、家族に選ばせるのが定番の流れとなっているのだが、何度も訊かれているうちにモヤモヤが膨らんできた。
どちらも「本当に」「私が」食べたいものなんだろうか?

今日もたくさんの弁当を前に考える。
野菜がひとつも入っていないものは家族が好まないよな。
前に食べて不評だったものはやめておこう。
ああ、これ、嬉しそうに食べてたな。
じゃあそれを選ぼう。
あれ、「私」はどこにいるんだろう。とスーパーで立ち尽くしてしまった。


私は食べることがあまり得意じゃない。
少食というわけではなく、どちらかというと大食らいで、空腹が嫌い。
ぱくぱく大急ぎで胃を満たすことが何より大事で、味わって食べるのが苦手なまま育った。(それはもう元気に育った。)

味覚障害ではないので、ある程度の味覚はあるけれど、「おいしいね」と誰かに言ってもらえないと、それが美味しいかどうかの確証が持てない。

前に「何を食べるかよりも誰と食べるかのほうが大事」とつぶやいた。
どこかで誰かが「リア充の戯言」と言っていたけど(私に向けて、ではない。)ひとりでもなにかを「美味しい」と断じることができるのは羨ましいなと思った。


いや、羨ましいってなに?

私がなにを美味しいと思ったって、誰に咎められることもなくない?
ソムリエでもリポーターでもないんだから、腐っている食べ物さえ判別できれば、それがどう美味しいかなんて説明する必要もない。
ていうかいちご食べたいんだけど。
こんなに赤くて大きくて美味しそう。
いちご食べたい。
口いっぱいに頬張りたい。
でも果物ってどれも高い。
でも高いけど、高いからって我慢して我慢して、満足にいちごも食べられずに死んじゃうの?
そんなの嫌だ。嫌すぎる。
生きているうちのできるだけ長い期間、いちごで胃を満たしていたい!!!!

その日はいちごを買って帰った。(弁当も買いました。)


いちごを食べながら、私は自分の感覚と、それを受け取る自我との接触が悪いんだな。と思った。
接触を悪くしておけば、「嫌だ」と強く思うことはなくて。
でも「幸せだ」と思うこともできない。
自分を満足させられる人になれたらいいな、と常々考えているので、これではいけないよな。

いちご事変以後は、自分の感覚を確かめながら、食事を選び、食べるようにしている。
少し高い肉を買ってみたり、お昼ごはんに食べるおにぎりはまだ食べたことのないものにしてみたり。
「おいしいね」と自分で自分に言ってあげる。
そんなことを始めてみたら、自分を大切にするってこういうことなんだなと理解できてきた気がする。

先日は記念日だったので資生堂パーラーへ出かけて、たっぷりのいちごで胃袋を満たした。
しあわせ。

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