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第一回:夢から醒めた日

本作品は、阿賀北ノベルジャム2020の応募作品
おっかなびっくりスローライフ』のスピンオフにあたる連載短編です。

 地震の横揺れと船酔いを一緒にしたような、つらいめまいの発作。いつどんなときにそれがやって来るかは、わからない。
 それを視界の端の端まで追いやって、私は農家の道に分け入ろうとしていた。

 家業であるイチゴ農家を継ぐために、五月から「源川農園」の就農研修を始めた。
 きっかけは、父が腰を痛めてしまったこと。でも、話を切り出したのは私からだった。
 父は仕事の質を大事にするひとで、小さなころから私を容易には手伝わせてくれなかった。だから、ちゃんとした経験なしに継ぐことができないのは、何となくわかっていた。

 そんな父が、コネのある農業法人を紹介してくれたのは意外だった。
 
 将来的な独立を前提としたコースに参加した。オーナーの源川さん、現場監督の権藤さんは、面倒がらずにどこまでも質問に応えてくれた。そして同期は、生真面目な私を決して冷やかさなかった。

 地域へ溶け込むために、いろんな人に出会った。農家組合の方々、直販先のご家庭、直売所の店員さん。何回か、農家組合の青年部会にも顔を出した。
「農家はスローライフ」というけれど、全くそんなことはない。日々、誰かと顔を合わせている。たくさんの植物の、目に見えない変化にいつも気を配っている。そこが楽しくなければ、ただただ大変な思いをするだけだと私は思う。

 六月中旬の、ある曇りの日。私は朝の七時に起きて、朝一番にビニールハウスに入った。ほのかに甘酸っぱい匂いがする。計器を指さし確認して、巨大なファンを回して換気をする。
 すると、匂いはどこかへ行ってしまった。
 イチゴの収穫からパック詰めまでの一連の作業を、十時半ぐらいまでで終わらせた。そしてハサミを手にビニールハウスへ戻る。
 午後の三時までは、ほふく枝を切る作業が待っている。

 ──スニーカーの底に触れた地面の感触が、すこしおかしく感じた。
 季節の変わり目にちょっとばかり、調子を崩したのだろうか? ふわっと、浮いているような……。
 すぐに、自分の力でどうにもならなくなった。

 もう異変は訪れていた。地面に手を、膝をついた。重力がどこを向いているのかがわからない。

 けれど今、何が起きているかがわかる。数年ごしの、メニエール病の発作──これがみんなに知れたら、ここに居られない。立ち上がろうとして何度も転んだ。じっとしていれば治まると思い、数分後の回復を願った。

「おい、大丈夫か?」

 いっこうに良くならないまま、私を権藤さんが見つけた。
 作業服のまま担がれ、バンの中に移された。いつもは気にならない車内のシートの臭いが、今はたまらなく嫌だ。エンジンがかかる。
 バランスを崩したときに打ったのか、ひざに鈍い痛みが渦巻いているのを感じる。それがなんとか、私を現実につなぎ止めているような気がした。

 気づいたら市内の病院にいた。視界はもうろうとしているけど、頭はかろうじて動いていた。でも、気持ち悪くて、何かを考える気にはなれない。

「──すぐによくなるとは思うけど、お大事にね……」
「すみません。私のほうも、すっかり気が抜けてしまっていて。長引かなければ、また復帰させたいのですが……」
 病室のカーテンを隔てて、隣で聞きなれた声がする。どうやらここは、父と同じ病室のようだ。就農研修のオーナー、源川さんの声も聞こえる。カーテンの向こうの影のかたちが、ゆらゆらと揺れていて奇妙だった。
 病室の窓から吹き抜ける空気を吸って吐いていると、少し落ち着いてきた。うごめいていて気持ち悪かったカーテンの縞模様が、やっと直視できるようになった。
 けれど完全には治まっていない。また頭上をひよこが飛んでいて、ベッドから一歩出ればとたんに崩れてしまいそうだ。

 やがて、看護師さんが来た。
「発作が治まるまで安静にしていてくださいね。もし、ひどく気持ち悪くなったら言ってください」
「はい。今は大丈夫です」
 ありがとう。でもそれよりも、私にこの状況を説明してほしい。
 カーテンレールの金属がすれる音が聞こえた。ベッドから身を起こした父と、源川さんが見えた。
「昌、ごめんな。発作のこと、すっかり甘く見ていた」
「しょうがないよ」
 最後に発作が出たのはもう一年以上も前だった。前の職場──市の事務員をしていたとき、春先に一回だけ。それからは低気圧のたびに声をかけられていたけど、就農のために転職を決めたころには、ほとんど心配されることはなかった。
 だから、大丈夫だと思ってた。そう思う以外、前向きな選択肢なんてあっただろうか?
「いつ、どういうときに起きるかは、わからないのかい?」
「わからないんです。それが、メニエール病が難病と言われる理由で……」
 源川さんの質問に看護師さんが答えた。源川さんは手を組んで、神妙にしているほかなさそうだった。
 それにしても「わからない」と、目の前できっぱり言われると気持ちがざわつく。
 父がどんどん、確信を深めていってしまうじゃないか。私には無理なんだということに。

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農園側で起きているお話は、下記の応募作品からご覧になれます。


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