見出し画像

満足と飽和

いつだったか、遠く幼き頃
シャーペンや深夜のゲームから始まった
「背徳感」との戦い

そこから何年経ったろうか
高校生を終え、校則から解き放たれ、人生がいざ散らばっていかん というところで、この戦いは何故か同じ舞台に収束してしまうのです。。。

本当に人間の多様性なんてあるのか?と疑わしくなるくらい 皆一様に向き合うテーマ

それは「飲み会」


気づけばモラトリアムなんて大層な首輪を付けられ、社会もあらゆる挑戦に一旦は目を瞑ってくれるようになる。そんな通過儀礼を経て、みんなは自由の羽の仮免許を手に入れる。

そうして 思い思いに使った羽を 若鳥が一丁前に伸ばす場こそが「飲み会」という名の集いだと思う。

昔はTVゲームや公園のベンチを介していたはずのその集会も、高校を卒業すれば鳥貴族が会場となり、いずれは聞いたことのない居酒屋に変わっていく。

相手は変われど話の中身は変わらず。門限を気にすることもない。さらに思うまま、好きなだけ飲食ができるのにも関わらず、その高揚感は中高の打ち上げで行く焼肉には遠く及ばない。今のところ そんな認識が拭えない。

モラトリアム期間など、所詮与えられた自由に過ぎないのだろうか。


飲み会に行くとき、
みんなはもう、当たり前みたいな顔で免罪符を飲む。
やがて顔が火照ってくれば、人の目を気にして生きている故か、涙みたいに本音が溢れる(アルコールを飲んでいなくても、空間がそうさせるのだと思う)。
チェーン店のカルビよりはいくらか高い料理に囲まれ、誰かが帰りを切り出すまで次の会場を探し続ける。

免罪符の旨みだけを吸いつつ赴く、ひたすらに行き当たりばったりな時間。
居心地はいい。頭を空っぽに 飽きるまで談話を交わす。

本当の意味で何も考えず騒いでいた頃とは何かが違うけれど。



そもそもの話、これまでの生活からは考えられないような時間に始まるのが飲み会だ。
20時から24時を過ごす友達なんて今までいなかった。
12分後の終電に向け 歌舞伎町1番街を駆ける日が来るとは思ってもみなかった。

免罪符自体の魔力には目を瞑るとしても、
我々の理性を吸い、次第に生き生きとしていく店の明かりが道路を照らす様は、見ているだけでもそれなりの背徳感が湧いてくるものだ。
薄すらと終電を調べつつ、結局は日付を超えたあたりで走り始めるのも 非日常を感じさせてくれる(ちなみに 歩行者天国が無ければ3回は終電を逃している)。

思えば、そんな光景も毎月 毎週見て慣れてしまっているのかも。
食や性に関しては 刺激物を恒常的に摂っていると感覚がバグを起こすなんて聞いたことがある。鈍るのだ。
水ですら飲み過ぎれば毒だ、ましてやもっと背徳的なものなんて火を見るより明らかだと思う。

地元に帰れば 昔と同じようなことで楽しめるのだけれど。初めから刺激をくれた人たちとは、濃度を薄めても同じように笑えるのかな。
なんて思いました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?