偽物でも美しかった。



「万引き家族」の小説版を読んだ。
映画は観たことがあったが本は読んだことがなかった。

この間の金曜、早めに仕事を上がって帰りに本屋に寄った。今週の休日は何を読もうかと、店内をぶらぶら歩いてこの本を手に取った。この時間が好きだ。

「万引き家族」は、今まで観た映画の中でも特に私好みの作品だった。是枝作品といえばこの夏「怪物」という映画が公開されたが、それも終わり方が特に好きで、2回観に行った。

かなり有名な映画なのであらすじを知っている人も多いと思うが、血の繋がりを持たない擬似家族の物語である。親や配偶者から愛を得られず逃げた先に集まった者たちが小さな平屋の一軒家で密かに暮らしている。

世間では「万引き」と呼ばれている犯罪行為が、この一家の生計を担っていた。これは父親である治と、息子の祥太の仕事だった。
ある日の仕事帰り、2人は団地の1階の外廊下で家から閉め出された幼い少女を見つける。少女の家庭事情を見かねた治はその子を連れて帰り、新たな家族として迎え入れるのだった。


小説版の良いところは、印象的な台詞やフレーズをしっかりと文字で捉えて何度も見返せるところだと思う。また、たとえば映像では伝わりづらかった感情や動作も言葉で表現することで見え方が変わったりする。まあ、それがはっきりと伝わらないことで引き出される魅力もあるため、どっちがいい悪いとかではないのだが。というか、どちらも良いのだ。二度楽しめるし、私は、書籍と映像どちらも出ている場合は両方手に取ることで、その作品について自分の中で考えやすくなるので助かる。


好きな文章を挙げたらキリがないのだが、特に好きなのは92ページの、信代が自身の職場で勝手に持ち帰った客の忘れ物のネクタイピンを祥太にあげるシーンで、祥太はそれを嬉しそうにつけたまま押し入れに入り、ネクタイピンを電気で照らして眺める。

祥太はヘルメットの電気をつけて、手にしたネクタイピンを照らした。
オレンジ色に輝く卵型の石が光を受けて輝いた。
美しかった。ニセモノでも美しかった。

「美しかった。ニセモノでも美しかった。」
私はこの映画の全てがこの文章に詰まっていると、ずっとずっと考えて、頭から離れない。


万引きも誘拐もたしかに立派な犯罪行為だ。法律の下に国家は成り立っている。
血の繋がりはなかった。この家族はお金のために、生きるために、"犯罪"で繋がっていた。

でもそこに、確かに愛はあった。家族だった。

「誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人は、他にいるんじゃないですか?」
私たちがいったい誰を捨てたというのだ。息子夫婦に捨てられた初枝と同居し、居場所を失った亜紀を居そうろうさせ、放っておいたら死んでいたかもしれない祥太と、りんを保護した。それがもし罪に問われるのだとしたら、彼らを捨てた人々はもっと重い罪に問われるべきじゃないか。

「こどもにはね、母親が必要なんですよ」
「母親がそう思いたいだけでしょ」
「ん?」
何が言いたいのか、と宮部は信代の顔を覗きこんだ。
「産んだらみんな母親になるの?」
「でも、産まなきゃなれないでしょ…」
「……」


法は守るべきであるが、それは果たして正義なのか。
元の家族や施設へ子ども達を送り出すことが本当に正解だったのか。

愛や絆だけで乗り越えていけるほど世間は甘くない。世間からの正しさを得る代わりに幸せを失わなければならない。




現実は残酷である。
でも彼らの人生は、残酷なことばかりだったわけじゃないだろう。

彼らに血縁関係がなくとも、彼らの関係が嘘や隠蔽で固められた繋がりだったとしても、6人が過ごした時間は決して嘘じゃなかった。
共に暮らす中でそれぞれが時折感じていた小さな幸せは"本物"だった。



あとがきに記載があったが、「万引き家族」という題名が正式に決定する前、「声に出して呼んで」というタイトル案があったそうだ。

家族から離れる覚悟を決めた祥太がバスを追いかけて来る治に向かって「父ちゃん」と呟く。その声は治には聞こえない。
しかし、治から見た祥太はかけがえのない息子であったし、祥太から見た治も、立派な父ちゃんであった。
その声は治には聞こえなくても、きっと届いている。
2人は明確に、"親子"だった。



「こどもたちふたりはあなたのこと、何て呼んでました?」
宮部はわかりやすく言葉にトゲを乗せて話した。
信代は黙った。
「ママ?お母さん?」
そんなふうに呼ぶはずはない。この女にはそう呼ばれる資格があるはずがない。そう思って、宮部は言葉を重ねた。
信代は顔をしかめた。そんなたいしたことじゃない。そう祥太には言った。しかし、こうして問われた時に、あの時とは違う感覚が胸に込み上げてきた。私はあの時、たしかに母だった。

私はあの子を産んではいない。でも、母だった。
そして、もう二度と、私はあの子に「ママ」とも「お母さん」とも呼ばれることはないのだ。
そのことを理解した時、信代の目から涙が流れ出した。
その涙は、どうやっても止まらなかった。

一度でいいから、「ママ」と呼んでもらうんだった。信代は、そう思った。


血の繋がりが本当の家族、親子の証明なのだとしたら、彼らの関係を家族とは呼べないだろう。


でも私は、彼らの繋がりや絆に名前を付けてあげたい。




嘘でもニセモノでも彼らは美しく温かい本当の家族だったと、そう思いたい。

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