世界は生まれ変われるか


この夏公開された映画「怪物」。
既に2回劇場に足を運んでおり、先日小説版を読み終えた。

「僕がこの脚本の元になったプロットをいただいたのが4年半前。そこに描かれた2人の少年たちの姿をどのように映像にするか、少年2人を受け入れない世界にいる大人のひとりとして、自分自身が少年の目に見返される、そういう存在でしかこの作品に関わる誠実なスタンスというものを見つけられませんでした。なので脚本の1ページ目に『世界は、生まれ変われるか』という一行を書きました。常に自分にそのことを問いながら、この作品に関わりました。」(是枝裕和)


この映画はカンヌ国際映画祭にてクィア・パルム賞(LGBTQに関連した映画に与えられる賞)を受賞しており、間違いなく性的マイノリティに触れた作品である。監督は「LGBTQに特化した作品ではない」と述べており、一部で批判もあるようだが、私もこの映画の本質は"そこ"ではない、と思う。

私はバイセクシャルである、という自覚がなんとなくあるが、LGBTQとこの映画の関連に対しては芯を食った意見が言えないし、自分でもそういうことに関して未だによく分からない(関心がないわけではなく、考えた上で、まだ明確に説明が出来ない。性的マイノリティの方への関わり方の正解や世の中の在り方について分からない)ので、これから書く文章の主旨にそれを置くのは差し控えさせて頂く。



話は変わって、
私は言葉や文章に触れることが非常に好きだと思う。

本や他人が書いたブログを読むことがいちばん手っ取り早いのだが、映画や音楽にももちろん"言葉"が存在する。それは台詞や歌詞だ。この言葉のここが良い!と説明は出来ないのだが、ただなんとなく良いなぁと思う。そういった文字の連なりを、メモに残したり、付箋を貼って読み返したり、はたまたその影響を受けて自分でも文章を書いてみて、それをまた何度も眺めるのが好きだ。

こういった嗜好を持った私からすると監督が脚本の1ページ目に書いた『世界は、生まれ変われるか。』という言葉には震えた。

いくら探してもソースが見つからなかったのだが「だーれだ」というキャッチコピーの前案がこの「世界は生まれ変われるか」だった、でも堅い感じがしたからやめたみたいな趣旨の話をなんかの記事で読んだ気がする。勝手に私が作り出した話だったらやばすぎる。そしたら、すみません。

『世界は、生まれ変われるか。』

映画を観たあとに様々な記事を読み漁ってこの言葉を見つけたとき、感銘を受けた…というか、よく分からないが目を見開いて固まってしまった。その目には光が宿っていた。

輪廻転生の話題は湊と依里の会話の中で何度も登場する。湊が母親に対して「生まれ変わったら…」と話すシーンも幾度となく出てくる。


彼らは生まれ変われるか。
湊と依里にとってそれはずっとテーマ…というか目指そうとしている場所…というか、上手い言葉が見つからないが、2人の間で「生まれ変わる」ことは非常に大きな意味を持っていた。


この映画の考察で、最後2人は生きているのか?という問いがよくあるが、私も初め観たときは死んでしまったのか…?と思ってしまった。今ではその問い自体が不毛、それほど重要視すべき点ではない、と自分では思っているが、しかしあまりに綺麗な映像だった。まるでそれは桃源郷のように晴れやかで広々とした夢のような世界だった。

ラストシーンに関して監督は

「自分たちがじつは加害した側だったのだということに、母親と担任の先生が最後に気づきますけど、もちろん気づいたことや追いかけたこと自体は正しいと思うけれども、でも届かない。少年たちが大人たちの手をすり抜けてふたりの幸せを手にしたということのほうが、むしろ大事なのかなと思うんです。その部分は脚本を練るなかで、僕も坂元さんもずっと変わりませんでした。その着地点が現実的にどういうものなのかはともかくとして、坂元さんと僕は、ふたりが大人の手をすり抜けて笑い合っているっていうことだけは、見失わないようにしようと思っていました。
だから、何だろうな、難しいんだけど、生まれ変わらない世界が彼らに置き去りにされる結末にしようということですね。僕らがちゃんと生まれ変われるのかどうか、ということが問われている。だから、「当事者」でない作り手たちが作品をつくるうえで、僕らがどのように気づくべきなのかということを、ちゃんと描かないといけないと思いました。それこそが、「当事者」でない人間が当事者としてむしろやるべきことだと思ったんです。」

「子どもたちを抱きしめて終わる話じゃない方がいいと。大人に救われて子どもが世界に引き戻されるより、大人が置き去りにされる方がいい、大人にはつらく厳しいけど、未来があるなと思った。」

と述べている。

彼らは別に、無理に自分を変えたり何かに合わせたりすべき人間ではなかった。

だから「世界は、生まれ変われるか。」という一文を目にしたとき、なんだか救われたような気がした。


私には描写を分かりやすく説明する語彙が全くないため、小説をそのまま引用して好きな場面の話をする。

水路から這い上がると、雨がやんでいた。まだ風が強いが、青空が見える。小鳥たちが鳴き交わす声が聞こえる。
「生まれ変わったのかな?」と依里が、自分と湊の身体を見比べている。
「そういうのはないと思うよ」
湊が笑うと、依里も笑った。
「ないか」
「ないよ。もとのままだよ」
すると依里が「そっか。良かった」と最高の笑顔を見せた。

嵐が明け、水路から2人が地上へと出てくる。泥だらけでずぶ濡れだけど2人が本当に美しくてとにかく映像が"良い"のは勿論なのだが、私はこの会話がとにかく、とにかく堪らなかった。

「生まれ変わったのかな?」
「そういうのはないと思うよ」
「ないか」
「ないよ。元のままだよ」

「そっか。良かった」


はあ〜〜〜〜〜〜になった。はあ……………


「良かった。」って依里が思ってくれて、本当に良かった。
さっきTwitterを見ていたら「自分はなんにでもなれるという事実をふと思い出してふるえる たとえばわたしは自信に満ちた人間だと思えばそういうふるまいができるようになる 他人に言われるより自分で思うほうがずっと強いから」ってツイート出てきて白目剥いてしまった。
「他人に言われるより自分で思うほうがずっと強いから」って言葉、心の宝箱にずっとずっと大事にしまっておこうって思った。


生まれ変わる必要なんて全くない。それに2人が気づいて、元のままの自分であることを微塵も悲観せずに笑い合えたこと。

未来は明るい。そう思えた。


2人が良かったって思えて、良かった〜〜〜………………………………
もうこれ。複雑な考察が様々飛び交う中、私がラストシーンを観て抱いた感想はとにかくこれしかなかった。良かったよ。


↓湊と依里の発言で好きだったところ総まとめ(急な大サボり)

「お母さん、僕は、かわいそうじゃないよ」

すぐに二人は新しいカードを手にして、額に当てた。湊は"ナマケモノ"で依里は"マンボウ"だ。
「か〜いぶつ、だ〜れだ」
依里がヒントを出す。
「君はね、すごい技を持っています。鷹に襲われた時などに使います」
「蹴りますか?」
「蹴りません」
「毒を出しますか?噛みますか?」
依里が首を振った。なかなかの難問だ。
湊はまったくわからなかった。
すると依里が助け船を出してくれた。
「君は敵に襲われると、体中の力を全部抜いて諦めます」
依里がぐったりと身体を横たえてみせる。
湊は吹きだしてしまった。
「それは"技"じゃないね」
「痛みを感じないように」と依里は、ナマケモノになりきって目を閉じた。
湊の顔から笑みが一瞬消えたが、すぐに微笑んだ。
「僕は星川依里くんですか?」
依里は答えずに、大人びた苦笑で応じただけだった。

「みなと…」
依里のささやきに、湊は頭の中が真っ白になった。だが、その直後に自分の身体に変化が起きていることに気づいた。
「待って。どいて。どいて……」
湊は依里の身体を手で押しやった。
下半身が硬くなって痛い。湊の顔が歪んだ。
依里は、そんな湊の顔を見つめている。
湊は下半身に目をやった。恐かった。
依里が再び湊に近づいた。
湊は逃げるように身体を横にずらした。
怯える湊に、依里は静かに首を横に振った。
「大丈夫なんだよ」

「僕ね、病気治った」
湊は無言で依里の顔を見つめた。
すると依里は作り笑顔で
「心配かけたけどさ、もう大丈夫」と言う。
「治ったって?」と思わず湊は口にしていた。
「普通になったんだよ」と依里は笑みを貼り付けたままだ。
依里が父親にどこかに連れていかれてしまう。
湊は焦っていたが、それを隠して笑みを浮かべた。
「元々、普通だよ」

この映画は、映像はもちろんだが、"言葉"がいちいち丁寧で美しくて良かった。純粋無垢な子ども故に出せる言葉そのものというか、発言ひとつひとつに意志や信頼、素直な愛が感じられて、なんだかそれだけで良かった。

特にいちばん痺れたのは依里の「大丈夫なんだよ」かもしれない。
「大丈夫なんだよ」なんて、こんな温かさに満ちた優しい言葉があるんだって嬉しくなった。


時刻は朝の六時だ。
常軌を逸しているのは承知していた。
しかし、麦野湊に直接声をかけたかったのだ。
麦野が出てきてくれたら、なんと言えばいいのか……。
保利の中でまだなにも固まっていなかった。
「麦野。ごめんな。先生、間違ってた。」
だが家の中で反応はない。
それでもかまわずに保利は叫び続けた。
「麦野は間違ってないよ。なんにもおかしくないんだよ」

「麦野は間違ってないよ。なんにもおかしくないんだよ」


湊と依里の担任である保利の言葉だが、これも好きだった……。
自分が周りと違う。それは性だけに限らず多方面で、周りと比べて落ち込んで眠れない夜、それは誰にでもきっと訪れるけど、そのとき「間違ってないよ。なんにもおかしくないんだよ」といち早く教えてくれる人が居たらな、と思った。



無知とは恐ろしいことだな、と最近思う。


大人になるにつれ、知りたくないことも知ることになる。見たくないものまで見えてくる。

前まで、大人になりたくないと、ずっと思っていた。
背負うものが増えていくから。身軽で、何もしらない身体でいたいと願っていた。自由でいたかった。


少し逸れた話をするが、私の好きなアーティスト"カネコアヤノ"が『祝祭』というアルバムをリリースした際のインタビューで

「知識が増えるということは、ちびっ子のときに見えていたものが見えなくなることとイコールだと思うから。でも、知識が増えると誰かにしゃべりたくなる、ということを美しいと解釈するしかないっていうか……誰かに話したくなるなら、それはまた新しいトキメキだし。全然悪いことではないと思いたい。」

と話していたのが今も忘れられないでいる。

知識が増えていくことに対して「美しいと解釈するしかない」とカネコアヤノが言ってくれて、本当に良かった。


他人に教えられるより自分で培った思想の方がそれは大事だけど、思春期や自分が露頭に迷ったときに人からもらった優しい言葉や安心は、きっとその人のこの先の人生のお守りになっていくんじゃないかな。

その知識の受け渡しについて、私はあまりに人間らしい立派な成長で、かけがえのないほど美しいと、カネコアヤノのおかげで、初めて光満ちた視点で見ることが出来た。



だから、不安と焦りでいっぱいの湊に依里が「大丈夫なんだよ」と声をかけたシーンが、私は凄く好きだった。
色んなものを見て、感じて、学んできた人間は、どうにか上手く生きてゆく術をたくさん知ってる。
知識が増えるほど人は、落ち着いて、優しく笑える。



無知は怖い。
地獄も天国も見たい。


「そんなの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもないしょうもない。誰にでも手に入るものを幸せって言うの」


最後に、この台詞の意味を私はずっと考え続けている。
今も答えは出せない。


幸せの定義は分からない。
私の幸福は私が決められるとは思っているけど、私が何を幸福だと感じているのか、それさえ曖昧だ。
ただ、美味しいご飯を食べて、柔らかな布団で寝る。人と話して、笑ったり、泣いたりする。なんだかそれだけで良い気がするが、それだけでは物足りないのが、人生だ。

大きな幸せに憧れて生きている。

その幸せが、私にとって本当に幸せなのか、それはそれは大きすぎてずっと掴めないから、分からない。
小さな幸せが本当の幸せなのかもしれない。
誰にでも手に入る、些細な分かりきった幸福。

なんとなく曖昧な言葉でしか、この台詞に対して意見を述べられない。


いつか意味が分かる日がきっと来るだろう。




その日まで。






世界は生まれ変われるか。
2023.08.08

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