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「かもしれない」の重層/12月の日記

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異動した先に距離感近く話してくれる、頼りになりながら何処か友達のような距離感ですらある、サークルの先輩みたいな、ほんとそんなで接しあえる、それでいてめちゃくちゃに仕事のできる上司がいて、つくづく嬉しい。
たっくさん、ほんとうにたくさんこれまでの、高校やら大学やらも含めて、この人のことを「最高の姉貴」って思って慕ってきている人ってきっとたっくさんいるんだろうなって思うほど、誰に対してもしっかりとかまってくれる。こんな言葉は乱暴で、ある意味押し付けがましいのだとわかっていながら、「幸せにあってほしい」と考えたりして、そう思ったとき、なんだか彼女は薄い光の膜を纏った薄幸の命みたいにみえた。幸せと儚さがセットに思えてしまう、多分まだまだ幼いわたし。

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昨日の日記に書いた上司と随分と長い時間雑談をする。「え、なに、家そんな状態なの、けぇっこうね、家の状態って全部みえるからね、あ〜この人と一緒にいれないって判断材料になるよ」「わかりますよわかりますよわたしだって、いや、なんていうの、単純に部屋が汚いとか、そういうのは良くっても、なんか生理的な違和感みたいなの感じたりしたりしちゃう気もするもんひとの家で」「そうでしょ、ちゃんとしたほうがいいよ」「だ〜から、こたつ買います。わたし」「あ、はいはいそれでこたつの話ね、あ、いいとこあるよ知ってる?」「どこっすか」
我々はおんなじような会話を何周もしながらゆっくりと別の話題にすすんでいった。ちっちゃい頃鉛筆をはめて遊んだ、プラスチック製の歯車みたいなやつが描く、徐々に円の位置がズレていく模様みたいに。
ある面で友だちみたいな人が仕事場にいることが、いいことも悪いこともあるだろうけれど、少なくともわたしは仕事ということに付随する「きっちり感」や「責任感」みたいなものとの折り合いがすこぶる悪くって、大切な飲み会とかだって生理的な嫌悪感で逃げ出してしまったりするから、とってもありがたい。少なくとも、東京の時の「明らかにおかしくなってるな、今」みたいなことがない。あくまで今のところ、ではあるけれど、おかげさまで。

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三日続けて上司の話だけれど、彼女に教わった家具屋に結構な時間自転車を漕いで行ったら定休日で、だんだん定休日の看板にズームインしていく動画を送ったらめっちゃ長い「www」と共に「すまん。申し訳ない」という趣旨の返信がくる。夜勤まで時間が変に余っていて図書館にいったらそこも臨時休業で、しかたなくタイ料理のお店にはいったらジャスミンティーがあったので飲んだらめっちゃくちゃに落ち着いて、読みかけだった小説もすごく進んだし、時間の流れをしっかりと手に持っているような感じがしてよかった。
夜勤が嫌すぎて会社に着いたときいつもと違う場所に来たみたいだとおもった。なんかそういう「ほんとうんざり」みたいなこと、思えば小学校とか中学校が一番多くて、いつの間にかその「うんざり」はもう「引き受けなくてはならない類の苦しみなのだ」と本能的にある程度思えるようになっている節がある。それを両親の教育の「おかげ」だと言うのはなんか違うような気がするけれど、けれどそういうの今まで繋がっているんだなあ、と今更のように思いいる。

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案の定泊まりは心身ともに悪くって、世界全部にキレながらしごとの終わった朝10時半から自転車に乗って遠くのニトリまで向かう。耳元には爆音で国府達矢のアルバム「ロックブッダ」を流す。ほぼ寝てない状態でなければ投げ捨ててしまうほどの音量で「ただこのうねりを受け入れてしまえ そうだ それぞれの身体にぴったりの自由を」とか聞こえる。漕ぐ足を早めてあっという間に着いたニトリでハリーポッター1でハリーが放った「これぜーんぶちょうだい」みたいに、展示品として出されていたこたつセットを「あのー…基本これをまんま欲しくって、なんかバリエーションとか選べたりしたりします…?」ときく。「これを、まんまですか」と言われて、「まんまです。まんま」とかえすと、うやうやと店員はこたつ布団のあるところに案内してくれた。
「郵送の他にお客様が軽トラックを運転してご自宅に運べるというサービスもありますよ」と言われて、丁重にお断りする。帰って夜まで観葉植物のようにぼんやりとアニメを見た。

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富士山駅にいく。着いた途端、「あ、好きだ」と思う。「フリクリ」のメディカルメカニカみたいに、街の向こうに屹立する富士山は異常性を持っているのだけれど、それ以上に、まるで晴れた日のスキー場みたいな清涼水を吸い込むみたいな空気と、街を見渡せる丘の上という立地と、どっしりと構えた品の良い喫茶店と、なんだかとても「ああ、ここに住むのとか全然いいかも」って感じだったのだ。
仕事を終えてちょっと散歩と思って駅から左に行くと大きな橋があって、その向こうに蜃気楼のように富士急ハイランドの観覧車が見えた。こっから先は行ったら帰れなくなりそう、とか思ってひきかえす。交番の感じも可愛くって、駅ビルには無印もあるし(無印さえあれば大抵は、と思っている節がある)、なんだか好きな駅だった。バスのほうが早いと聞いてバスで帰ったら、確かに早かったのだけれど腰がバリバリ痛くなって、「腰が砕ける」ってその通りすぎるな、と思いながら会社に戻る。

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甲府には映画館がほぼないので、「ちょっと観たい」くらいの映画を諦め続けていたのだけれど、これだけは絶対に、と思っていた「窓辺にて」を、実家に帰って、夜ご飯を食べてから抜け出すように家を出て、遅めの回でみた。
今泉力哉さんの作品をみるのは、他の映画を見るのとなんだかぜんっぜん違くって、「面白かったね」とか「泣いたわ」とか「いやあ、音楽が最高で」とかそういうのとは種類の違う「い〜〜〜〜〜」という感じになる。
「そういうこと、ああ、そういうこと、い〜〜〜〜〜」と何度も思う。多分近い感情は「悔しい」だ。なんていうのか、涙がこぼれるから良いわけではないし、というか「良い」ことが「良い」わけではない、なんて、禅問答みたいな感じだけれど、「いま」が肯定も否定もなくそこにあって、それがそのままだったり変わって行ったり、そういうことってあるよね、っていう、でもそれをわざわざ切り取るってなんだろうって考えた時に、「窓辺にて」というコンセプトにある意識的なカメラワークとか伏線を回収しないけれど意識させるような今泉監督の真骨頂の「外し方」みたいなのや、役者が「ひと」でいることが存分に表れた仕草みたいなのがあって、ほんとうに凄まじい。ちょうどW杯がやっていて、すごいトップレベルの挑戦や、努力なんかから見えて来るものもあって、それはそれでとっても良くて、でもそうじゃなくても良くて、でもそれは「もうすでに幸せなんだよ」ってことでは全然なくて「幸せなのかもしれない」とか「これって正しいのかわからない」とか、そういう「かもしれない」の重層、「いま、いま、いま」が連なっていること、それだけで、それだけでもう、という感じ。
なんか言葉を書いてきたり、歌を作ったりするのやっぱりやめられないな、と思う。こんなものを作る人がいるんだから、って思う。悔しいじゃ終われないもの、もっと、もっと、作っていかなくちゃ、と思う。

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イベントを友人と行う。友人が本当に優れている人で、おんぶされている感じで、1人では叶わなかった大切な瞬間を与えてもらう。というのも、多くの人の前で弾き語りをするの人生で初めてだったから。多くの人の前で何かする、というのにはすごくコンプレックスがあって、そのコンプレックスを「よしよし」しながら何年間も1人で家でギターを弾いて歌うってことをしてきたけれど、やっぱり自分だけの力では人に届けるように歌うってことができなくって、ほんと、友人のおかげだった。
イベントは友人のパートもとっても良くって、2人でやったのも良い感じで、自分的にもそれなりによかったって感じになった。これの振り返りはこれから何ヶ月か何度もしていくのだと思うけれど、とりあえずの感想としては「よかった」があって、よかった。
帰りの新幹線で、いや、空間ってすごいなって思う。だって歌ったものが届いたのがわかるのだ。「これはこの人のこと〜〜〜」みたいな歌詞結構あって、でも配信とかさ、1人で弾いてる動画なんて正直さ、なんていうんだろう、正直好きなアーティストのだって観ないことある。毎日忙しいし、いずれ見る、のまま見なかったものなんて星の数ほどあるわけだし。でも空間の場合はそこだけがあって、んで、そこにいた人にはちゃんと届いている。その肌触りがある。それが革命的で、とんでもないことのように思えて、またやろう、と思いながら、なんかちょっとオーバーヒートしてしまった頭で甲府に帰る。明け方まで寝れない。今回ばかりは仕方ないけれど、こういうイベントすら、興奮して寝付けなくなる躁状態で臨むものではなくって、日々の一つになっていけるように、少しずつだな、とか思って絶望的な時間に寝た。

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