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優しくなったり悲しくなったりしないでよ

今日も昨日と同じように、ピアノを弾いて、ギターを弾いて、お風呂に入って、というような夜。午前中、なんとなく会社に出たくなくってスターバックスでアールグレイティーラテをたのんで、推理ものの分厚い本を読んだ。こういう行いが積み重なって、わたしはいつのまにか追いこまれて、文章すら書きたくなるような日が訪れたのは、ついこのあいだのことだったはずなのに、もうすでに、生活は切迫感を失いかけている。もちろん、それでいいのだろうけれど、おそらく本当に大変なところをようやっとくぐり抜けることができたみたいで、これからは普通に大変なところなだけで、時間をこってりとかければ終わる、その見通しがなんとなくみえてき始めている。もう書けないな、と思ったときは、出口の明かりが全く見えていなかったから、こころがきゅるきゅるといたかったのかもしれない。
しっかりと街が春になってきていて、だんだんと、花粉の力も弱まり、かわりにだれか愛おしくて仕方ないようなひとと会いたくなってくる。笑いあって、手を取りあって、肌を寄せあって、春をかんじて、昼も夜もわからなくなって、カーテンの動きだけをぼーっと眺めるような、書いていて、そんなことはわたしの毎日にはうまれたりしなさそうだな、と、唐突にきづいて、それでも想像はもわもわとふくらんで生温かい風の中に息づいていた。
「そんな歌くらいで お天気くらいで優しくなったり悲しくなったりしないでよ」という言葉がすきで、この曲をよく聴いていた頃のことをおもいだす。
なんだか今更のようだけれど、ずっと前からそうなのは気付いていたけれど、わたしは音楽がすきだけれど、そこにどんな言葉が載っているかって、そんなことにばかり気持ちが向いているみたい。
わたしがもしこの生活にいなかったら、という思いは途絶えずにつづく。きっとこんなに甘いものをたくさん食べたりしてないし、散歩や水泳なんかをして、身体は少しはひきしまっていて、もしかしたらとなりには誰かがいて、それこそ「優しくなったり悲しくなったりしないでよ」って、思ったりしているかもしれない。
春がきたって、それだけで、わたしはすぐにかんがえこんでしまう。

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