掘る→伝える

note5本目です。ここ何ヶ月かのステイホーム状態を経て、行動が著しく制限されたことは決して悪いことばかりではなく、自分のこれまでの活動をゆっくり振り返って、整理するまたとない時間だったと感じてます。

声を出す。読む。語る。伝える。朗読という表現活動を包括的にせよ断片的にせよ説明する言葉はたくさんありますが、何をベースにそれらをやるのか、はっきりしたのは、引用するなら唐木元(ROOTSY)さんのこここから始まる連続ツイートの如く、「誰かの、何かの、社会をよくするためにする」朗読を続けようということでした。

単なる職能じゃなくて

音楽や映画や演劇や、あるいはそれらを提供し私自身が長年にわたって享受してきたさまざまな場所も含めて、ほぼすべての芸術文化のフィールドに、仕方のない理由あるいは取るに足らない理由あるいは邪な快感を求めるがために、大量の悪意が押し寄せたのがここ3ヶ月くらいの話でした。それでも私を含むそのフィールドの住人たちは、プロアマ、老いも若きも関係なく、どうにか生き延びよう、もう1度それぞれの現場に戻ろう、としています。一方で同じ場所にはもしかして帰れないかもしれない、いや帰れないだろうという半ば諦めに似た感情を時折抱いています。単なる職能ではなく、自分の生命の健康と精神の平衡を保つために生活と表現が不可分になっていることをしている、だからこそそういう感情を抱いてしまう。芸術家という存在はそういう人種であるように思うのです。

それを言い換えれば、観客席やモニターを通して、伝えることで誰かの、何かの「役に立つ」ことを、もっと前面に押し出していこうと、私自身は感じるようになってきました。今回読んだ作品もそうです。没後50年もとうに超えて、顧みられることの少なくなりつつある吉川英治作品、そして岐阜に縁のあるこの「新書太閤記」を、ちょうど #麒麟がくる に絡めて読んで記録を残そう、掘っていこうと。もしかするとそれが、ここから何ヶ月か何年間になるか分からないけれど、これを読み伝えることで、日本語のネット空間上での広すぎる多様性を、ほんの少しでも補強できるのではないか、と。思い上がりですかね?別にそれでも構わないです。

そういうわけで、アップが終了後、本日朝9時に公開予定です。よろしければ是非お聴きいただき、感想をお聞かせいただければと思います。宜しくお願いいたします。


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