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ロシアで疲れきった朝に

朝、宿の食堂に入ると、ミルクをあたためた甘いにおいがする。
ほんのり黄色くて、どろどろに溶けたものがお椀に入っている。
スプーンですくって口に入れると、やさしい甘さがじんわり広がる。飲み込むと同時に全身に染みていく。

これが、ロシアの朝食、カーシャ・ククルーザ(とうもろこしのお粥)である。

***

バイカル湖に浮かぶそこそこでかい島・オリホン島の観光で、わたしは心が擦り減っていた。同行者のドイツ人・マーリン(仮名)と行動を共にすることが、とにかく苦痛だったのである。

彼女とは、留学先の語学学校で出会った。英語が堪能な20代。
わたしより2週間遅れで留学プログラムに合流し、アパートのルームメイトとなった。

第一印象は悪くなかった。
「ドイツから来ました。マ・ー・リ・ン、って言います」
「マーリン」
「あら、うれしい!今まで会った外国人のなかで、一番わたしの名前の発音が上手!」

留学先・イルクーツクの街並み。「シベリアのパリ」と呼ばれている


マーリンはロシア語がまったく話せなかった。
ロシア観光のついでに、ロシア語留学に挑戦したらしい。
ヨーロッパの国々をひと通り旅し、じゃあ次は、とロシアに来てみたら、日々カルチャーショックの連続のようだ。
「ロシア人って駅員や店員でも英語が話せないの!ヨーロッパではどこでも英語が通じるのに」

マーリンは野良犬に怯えていた。
街中を呑気に歩き回る野良犬が視界に入るやいなや、パニックを起こす。
「野良犬は狂犬病を持っているの!!!噛まれたら死んじゃう!!!絶対に近づいちゃだめよ!!!」

野良犬は大声を出す人間に興味を示して近づいてくる。
「だめ!!!あっち行って!!!」

イルクーツク州のシンボルは、トラをベースにした架空の動物だ。野良犬より恐ろしい


そんなマーリンと、オリホン島を旅行することになった。

わたしはマーリンをちょっと鬱陶しく思いはじめていたが、旅行は語学学校が用意したレクリエーションのひとつで、語学学校のスタッフが同行するものと思っていたから、マーリンのことはあまり気にしなくてもいいんだと、嬉々として申し込んだ。

しかし、旅行初日に現れたスタッフは、集合場所に着いた我々をボロボロのワンボックスカーに押し込め、「パカパカ〜(*1)」と手を振って家に帰ってしまった。
(*1)Пока пока. ロシア語で「じゃあね~」の意。

呆然としているうちにワンボックスカーは走り出した。ガッタガタの悪路を5時間かっ飛ばし、船に30分ほど揺られ、オリホン島に到着した。

建物はあるが人の気配はない。バイカル湖の波打つ音だけが聞こえてくる


マーリンは、これまでのヨーロッパ旅行で経験したことのない僻地にいるが不安だったのだろう。
いつもの3倍は大きい声でまくし立てた。
「ここってヨーロッパの人々に有名な観光地って聞いてたのに英語が通じないのはなぜ!!!ヨーロッパじゃどこでも英語が通じるのよ!!!」

マーリンは、島の犬にビビりまくっていた。
どれも飼い犬だが、リードがなく人懐っこいので、観光客を見つけると尻尾を振りながら寄ってくる。
マーリンはほとんど発狂している。
「NO!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

オリホン島の売店にいた犬


マーリンは、旅行中、宿のオーナーと会話をしようとしなかった。英語が通じないからだ。
ただ、どうしても必要なときだけ会話を試みた――常にわたしを通して。

マーリン「夕飯はいついただけるの!?」
わたし「アー、(ロシア語)夕飯はいつ食べられますか」
オーナー「(ロシア語)7時ね」
わたし「(ロシア語)わかりました」
わたし「(英語)セブン」
マーリン「今日はへとへとなの!!!もっと早く食べられないの!?!?!?」

迎えの車が時間になっても来ない日があった。

マーリン「もう10時を過ぎているのに車がこない!!!わたしたち忘れられたの!?!?!?」
わたし「(ロシア語)車はいつ来ますか」
オーナー「(ロシア語)わからないね」
わたし「アー、(英語)She said、アイドンノウ」
マーリン「なんでわからないの!?!?!?電話してもらうように言って!!!」
わたし「アー、(ロシア語)電話をお願いしm
マーリン「早く電話してもらって!!!!!!」

わたしの心労は限界を迎えた。

***

旅行最終日の朝に出てきた、カーシャ・ククルーザ。
ひとくちずつ口に運び、ひとくちずつ飲み込む。
ミルクで煮込まれたどこまでもやさしい甘みが心を癒し、旅で失われた前向きな気持ちが満ちてくる。

目の前に座っているマーリンは、カーシャ・ククルーザを食べなかった。
「これ苦手。こんなのヨーロッパでは出たことない」

彼女は、カーシャ・ククルーザの美味しさが、疲れを洗い流してくれるのどごしが、五臓六腑に染みわたるよろこびが、わからないのだな。
わたしはマーリンに優越感を抱いた。

そして、これ見よがしにお椀を持ち上げて、残りのカーシャ・ククルーザをかき込んだ。


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