平穏である毎日への居心地の悪さを気づいてしまう短歌

グレゴール・ザムザは蟲になれたのに僕には同じ朝ばかり来る

『サイレンと犀』岡野大嗣


いつまで経ってもたどり着けない城、理由のわからないまま巻き込まれる裁判、そして、朝目が覚めると蟲になっているサラリーマン。

チェコ出身の小説家フランツ・カフカは、不条理という言葉がよく似合う作家である。そして、その不条理は不条理らしく、最後まで理由が説明をされない。いや、理由などないのであろう。だから不条理なのだ。

この短歌で参照されているのは「変身」という小説で、主人公のグレゴール・ザムザは目が覚めると、自分が大きな蟲になっていることを発見する。そして、彼は自分が蟲になっていることに気づきながら、仕事の心配をし、家族の心配をし、将来どうしようかということを考える。

そのまま小説は蟲になったザムザと、蟲の世話をしなければいけなくなった家族とを中心に話が進んでいく。ただ、最後までなぜ蟲になったのか、蟲とはどういうものかの説明はされない。

この受け止めようとも受け止めきれない不条理な事態に、人間がどう向き合うのかを描かれる。

これは、ザムザの気持ちになってみても、家族の立場でも、そして読者としても、自分の身には起きてほしくない不条理である。明日の朝、目が覚めると自分が蟲になっていたなんて、想像したくもない。

それなのに、この歌の主体は、「蟲になれたのに」とぼやく。

そこに込められた想いは、「僕には同じ朝ばかりくる」という下の句で明確になる。この主体は、同じ朝にうんざりしている。それは、おそらく幸せの光に照らされ、希望に満ち溢れた目覚めではないのだろう。

また朝がきた。1日を過ごさなければいけない。そして、病気でもない自分は、この1日をサボることもできない。逃げることもできない。本当は、逃げられるのかもしれないが。真面目ゆえに、いや、真面目という感覚もなく慣性の法則のように、毎日が繰り返され、そこを滑り続けているのだろう。

それを止められるのは、もはや自分ではなくなっている。日々の生活に追われ、仕事に追われ、支払いが、ローンが、食事が、と。生きているだけで、私たちにはさまざまなことがつきまとう。自分でやっていることが、誰かにやらされているように感じられる毎日だ。

それらは、止めようと思えないもので溢れている。

だから、主体は、不条理を願う。不条理を願うしか無くなってしまっている。それは、不幸を願うとも違い、幸福を願うとも違い、またハプニングを願うとも違う。

求められているのは、全く別のもの、不条理である。

それは、あまりにスムーズに回りすぎる世界の滑らかさへの嫌悪かもしれない。だからこそ、主体は願う。この世界が想定していない方角へ進ませて欲しいと。


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