選ばれなかった私へ、そしていつか短歌に出会うあなたへ

短歌新人賞の結果が発表された。少し前のこと。そして、その結果で、落ちこんでいる人がいた。自分の歌が掲載されていなかったからだ。

掲載されなかった、もしくは、思っていたほどの評価を得られなかった人の多くが悔しくなり、悲しくなって、否定された気持ちを味わうのだろう。誰だって、選ばれたいと思って、出しているのだから。そして、選ばれる人は一握りで、選ばれない人の方が圧倒的に多いのだから。

どんなものであれ、賞であれ、コンペティションであれ、抽選であれ、選ばれない人が生まれる。どんどんと。こんなことを書いている私自身は、この賞に応募すらしていない。いや、できる状態にすらなかった。そういう意味で、私も選ばれなかった。

この世界にはいつも、いや、もしかしたらどの世界にも選ばれた人と選ばれなかった人がいる。そして、選ばれた人は、あまりにも少ない。

ただ、賞というものを否定したいわけではない。どこかで線引きは必要である。ここからがプロのラインです。ここからがプロの短歌です。ここからが正しい/良いものです。そういう線引きがなければ、文化は発展しないようだ。

しかし、しかしだ。野暮だと分かっていても、抵抗を示したい。

文化を発展させるのは、賞やプロではなく、それ以外の選ばれなかった人間だ。選ばれない人間がいなければ、初めから選ぶ必要はない。というのは言葉のトリックすぎるだろうか。でも、きっとそうだ。

選ばれる人も選ぶ人も、選ばれない人を必要としている。だから、選ばれない人が必要なのだ、なんて養分のような言い方はしない。それこそ、一人一人の表現を、思考を、ぐちゃっと一つに丸めてしまう暴力だ。

そうではなく、それよりも、短歌を読んだことのある人、みたことのある人、賞に出そうと思ったけど出さなかった人、賞の存在すら知らない人、そんな人たちが、短歌ってなんかいいよね。と言った時、その文化はきっと深くなっている。

そう、深くなるのだ。

できることなら、成長や、発展なんて物差しを持ち込みたくはない。浸透も拡散も、あまりに資本主義的すぎる。

それよりも、短歌が少し深まる。それは、あなたが短歌を見つけた時、短歌を読みたくなった時(読む必要はない)、短歌という言葉を口にした時。それは言わば、誰かの中に短歌が少し生まれる瞬間。それが大事なんだろう。

だから、私は今日も短歌を読む。誰でもなく、自分のために。どこにも出さず、自分しか読まない短歌を。それが、どれだけ下手くそで、愚にもつかないものだとしても、短歌を読む。

なぜか。短歌が好きだから。短歌がこの体のどこかにまだ眠っているから。それだけだ。

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