私の指先にはどれだけの可能性があるのかを短歌を読みながら考える
目の前にどら焼きがある、そのどら焼きを何気なく指先で押してみる。もちろん、そのどら焼きは、少しへこみ、そこに窪みが生まれる。
日常のほんの些細な一場面を描いている。そして、それがあまりにも些細なものだという印象は、下の句で一変する。一変させられる。
いま、何気なく指で押さえて窪んだその空間、それはついさっきまで存在しなかった、そして、この歌の主体がどら焼きを抑えるまでは生まれるはずのなかった、「世界の新たな空間」だったのだ。
何を大袈裟なことと思うかもしれない。しかし、この大袈裟な転倒こそが、この短歌の魅力である。
私たちは、時間や空間を与えられたものとしてそのまま受け入れている。空間を広げることも、狭めることも、ましてや作り出すことなどできない。そして、時間にしても同じことだ。
だからこそ、コスパやタイパという言葉が生まれ、今あるもの、与えられたものをどれだけ上手に使うのかに注目している。
しかし、実際には、空間はこの瞬間に生まれている。もしかしたら、時間も同じように生まれたり、広がったり、しているのかもしれない。ただ、気づいていないだけで。
このどら焼きだった空間、主体によって生み出された、出来立てほやほやの空間は、この硬直した世界を揺るがす兆しと捉えてみたい。
そんなことを考えるのは、それこそ大袈裟だろうか。
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