自分には居場所があるのかと考えたときのための一首(短歌一首鑑賞)
誰もが一度は考えたことがあるだろう。自分はなぜ生まれたのだろうか、と。
気づけば生とは自分の中に当たり前にあって、そこから先に人生という道が伸びている。その行き先は誰も教えてくれない。というか、誰も知らない。親も友人も、そして自分でさえも。
その道には必然はひとつもなく、ただ振り返った時に必然だったと言いたくなるだけかもしれない。
それほど私たちの生には、約束されたものがない。悲しいほどに。
しかし、それと同じくらい強く強く願ってしまうのも事実である。自分の生には意味があるのだと。
だからこそ、自分の天職を探し、居場所を求め、運命の人を待ち焦がれる。
そんな人間の目の前に、ちいさなくぼみがある。
ちいさなくぼみ、それはトーストのくぼみ、白飯のくぼみ。短歌には描かれていない。ただ、どちらにしろ、それは卵のための空間である。
それを作ったのが、ぼくだ。
ぼくは、くぼみを見ながら、そこに目がけて、卵を落とす。そこが卵のための空間であることを証明するために。
そういえば、バナナマンの日村さんがなぜ卵が好きなのか、と問われて、「命だからかな」と答えていたが、その視線が的確すぎて膝から崩れ落ちたことがある。
卵とは命である。白い殻に包まれた命の塊である。それを割って落とすとは、つまりこの世に命を生み出すことの擬似体験とも言える。
その行為を見つめながら、ぼくは考える。考えてしまう。
ぼくにくぼみはあるのだろうか、と。
ぼくは、このままの世界にいる。このままの世界とは、ポジティブに描くならば、くぼみを与えられて、ぼくはここに一人だけいる。その唯一性を感じ取っているという。
そんなことを考えながら、もう一つのネガティブな解釈を捨てきれないでいる。
世界はずっと満たされている。減りも増えもしない。自分がいてもいなくても、このままの世界だ。生まれる前もこのままであり、そして去った後もこのままである。そんな世界だと。
自分がいてもいなくても「このままの世界」に「ぼくはひとりいて」ぼくのつくった「ちいさなくぼみ」に「卵を落とす」
その卵を見つめる瞳は、一体どんな色をしているのだろう。
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