「チンパンジーはキャッチボールができない」のはなぜか

 遊びはしばしば「人間的」な活動といわれるが、実際には、人間だけが遊ぶのではない。例えば、猿やチンパンジーも遊ぶ。よく知られるように、猿やチンパンジーも、独自の「社会」をもっているが、その社会のなかで遊びは重要な役割をもっている。しかしチンパンジーの遊びをよく観察すると、そこには、人間にはみられるある種のタイプの遊びが欠けていることが分かる。ヒト以外の霊長類には欠落している遊び。そこに眼を向けることで、われわれは翻って、人間や人間社会のあり方をより深く理解することができるだろう。

 比較認知科学者・発達心理学者の明和政子は、物(道具)を使った人間の遊びを、「他者」との関係に即して三つに分類する。
(1)「一方向的」遊び:一人が他者に物を向けて遊ぶこと。木の枝を相手の口のなかに突っ込むなど。
(2)「双方向的」遊び:複数人が同時に同じ物を共有して遊ぶこと。相手と同じ木にぶら下がって回転する、木の枝を引っ張り合うなど。
(3)「交互交代的」遊び:特定の物を他者に渡し、物を操作する役割を交代して遊ぶこと。交互にボールを投げ、受けとるキャッチボールなど。
 だが興味深いことに、チンパンジーの世界では(3)の遊びがみられないという。したがって(1)と(2)の事例(どちらも木を使った遊び)が実際にチンパンジーの社会で観察された遊びであるのに対し、(3)は人間の事例からとられている。チンパンジーは人間並みにきわめて知能が高いとされるが、キャッチボールができないのだ。

 ここから言えるのは、交互交代的な遊びが「人間特有」の遊びのスタイルであるということだ。しかしそれはどうしてなのか。何を意味するのか。明和はそれを、認知メカニズム(心のはたらき)の発達という観点から説明する。少し考えてみよう。キャッチボールのように「物を操作する役割を互いに交代しながら展開する遊び」に必要な能力とは何か。簡単に言えば、それは「自分-他者-物」の三項関係を「自分(だけ)ではなく他者の立場にたって理解する」能力、そして「他者の心の状態を、いま・ここでの文脈に応じて、柔軟かつ適切に読み取る」能力である。
 ここで先の三つの遊びをもう一度見てみよう。(1)と(2)の遊びは「他者の心の状態を、自分の心の状態を基準にして認知する」ことができれば成立する。他者の意図や欲求を考慮する必要はない。それに対して(3)の遊びは、「他者が物をどう操作するか」を「他者の立場」にたって考慮(想像)することを必要とする。それは人間にはできるが、チンパンジーには難しいことなのだ。つまりチンパンジーが、キャッチボールのようなタイプの遊びをしないのは、他者理解の能力が欠けているからに他ならない。

 人間の新生児が他者を理解し、社会へ参入する過程にはいくつかのステップが存在する。(a)他者と物の違いを理解し、他者と積極的に関わるようになる時期(二ヶ月頃)、(b)他者に加えて物にも関心を示すようになる時期(四ヶ月頃)、(c)他者の意図性の理解や共同注意(自分が興味をもつ物や出来事に他者の関心を向けようとすること)が発生する時期(いわゆる九ヶ月革命)が、その代表的なものである。
 これらを「自分-他者-物」の三項関係に即して言い直すとこうなる。(a)の段階で「自分-他者」が生じ、さらに(b)の段階で「自分-物」が生じる。そして(b)の段階で、他者(周囲の大人)の主導のもとで、「自分-他者」の関係のなかに「物」を位置づける遊びを経験することで、「自分-他者-物」の三項関係に入っていく。そして(c)の段階に至ると、「自分-他者-物」の三項関係に基づいて行動できるようになる。つまり、自分自身で、物や出来事に他者の視点を組み入れてやりとりできるようになる。ここに至ってようやく、(3)の交互交代的な遊びを、自らが主体となって行うことが可能になる。
 チンパンジーも生後三歳くらい経つと物を使った遊びができるようになる、すなわち(b)の段階に至ると考えられるが、その後(c)の段階へと至ることはない。そのためチンパンジーは「大人」になってもキャッチボールができないのだ。

 そして、キャッチボールのような「交互交代的」遊びを可能にする人間特有の認知能力は、遊びの範囲をこえて、言語の習得や文化の形成にも関わっている可能性がある。進化人類学者・言語学者のマイケル・トマセロは、「他者を自己と同じく意図を持った主体として認知し、行動の背後にある意図性と因果的構造のスキーマを見出す能力」が、チンパンジーなどの類人猿がもたない、人間特有の認知能力であるとしている。それは「模倣能力・同調能力」とも言い換えられる。これらは人間の乳幼児が「九ヶ月革命」((c)の段階)で獲得する能力であるが、実はそれらこそが人間に、言語の使用や文化の継承を可能にしているものに他ならない。「創意の発揮」つまり、何かを思い付き、それを他者に伝えることは、チンパンジーにもできる。チンパンジーにできないのは、それを「忠実に継承」することである。継承に必要なのは他者の意図や欲求の理解である。そして次世代への継承なしに文化は形成されない。言語も同様である。言語は「間主観的」で「視点依存的」な記号的表示である。それはまず、世界に対する「間主観的」解釈の積み重なりを体現するものである。その場で意味(指示)することに成功したとしても、「継承」されなければ言語は成立しない。発声によるコミュニケーションだけなら、人間以外の哺乳類(鯨など)もできると言われている。しかしそれを言語として継承できるのは人間だけだ。そして「視点依存的」とは、同じ物を異なる視点や目的のもとで扱うことや、逆に、異なる物を同じ物として扱うことができる能力だ。言い換えれば、ある物(言葉)が他者の立場からどう了解されるのかを知ったうえで、その物(言葉)を使用することだ。言うまでもなく、ここには(3)交互交代的遊び(物を相互に交換して他人と遊ぶこと)と同じ原理が働いている。

 「会話のキャッチボール」というポピュラーな比喩は、進化人類学な本質をうまく言い当てているともいえよう。会話もキャッチボールも、チンパンジーにはできない。それは、他者の立場にたって、他者と物(言語、道具)をやりとりすることができる、人間ならではの営みなのだ。

 (補遺)ある行動を外部から観察して、それが「遊び」であると判断するのは、じつは簡単ではない。人間の場合であっても同様だ。明和は、人間の赤ちゃんとチンパンジーに共通する「遊び」の指標として、
(一)他者と行為を共有したいという動機をもち、それ自体を目的として他者に向かうこと
(二)参加者に笑顔が確認できること
の二つをあげている。これに対して、「一人遊び」の行為は、それが「遊び」(遊んでいる状態)であると外部から判断することが困難であるため、考察から除外すると明和は宣言している。

 社会的遊び(他者との遊び)に比べて「一人遊び」が見極めにくい、定義しにくい、という事実はとても興味深い。人間を含む霊長類にとって、他人と遊ぶことと、一人で遊ぶことは、同種の活動ではなく、まったく異なる別個の活動である可能性もある。人間以外の動物が「一人遊び」をするのかどうか、という点も気になるところだ。これはきっと先行研究があるので、いずれ調べたい。