俺たちの足は何故車輪じゃないのか


名古屋駅構内の太閤通口から近鉄名古屋まで、歩くにしては少し面倒な距離がある。

その道のりは俺にとって当然となった予備校からの帰路の一つ。帰宅ラッシュの背広達の間を抜ける。流れに逆らわないように。

遅すぎず、速すぎず。

向こうから軽快な車輪の回る音がする。
どうやら車椅子がやってきたらしい。

ぶっとい腕で車輪を回している。発達した上半身から放たれる豪快なひと回しは、殆ど同じ速度であるはずの俺と違う軽やかさがあった。

……羨ましい。

なんだかそう思った。

俺にも車輪が欲しい。具体的には両足に。シャープな感じのホイールが欲しすぎる。どうして俺には車輪がついてないんだ?

どう考えても今ついている貧弱な二本の棒みたいな部位より、車輪の方が移動に便利だろ。
進化の過程で一回ぐらい車輪がついてもおかしく無いはずなのに、どうしてだ?

通り過ぎる車椅子を横目に、階段を下って改札を通る。
ホームにはすでに列車が停まっている。

飛び乗る。

出発までの残り十分。席に着いたまま、足に車輪がついていない理由を考えることにした。

走行速度的な面で考えれば、どう見ても車輪の方が速いのは明確だ。そして足が速いというのは、厳しい生存競争において有利な状態では無いのだろうか。

チーターを思い出した。
人間の足サイズの車輪如きで、この爆速肉食獣から逃げられるかと言われれば、答えはノーだ。

過酷なサバンナでもチーターに狙われる草食獣はそこまで比類無き速さを持っているわけでは無かったはずだ。あいつらはどうやって生き残っているのだろう。

それに車輪は平坦な場所じゃ無いと真価を発揮しないことに気づいた。駅内のようなツルツルした道は自然界にはほとんどない。なんならここ十数年以外の人間が過ごしてきた時の中で、平坦な道がないことの方が圧倒的に多いだろう。

では逆に進化を元に考えるなら、キャタピラ的な構造の方が凸凹した道を歩くのには適しているのではないか。

……今度は速さが足りない。
車輪よりも凸凹とした岩場を移動しやすくとも、四足獣には格好の餌だ。

やはりそこそこの速度が出せて、そこそこの機動力のあるこの両足が、人間にとって最適なのだろう。

だが、十分で頭は理解しても、心は車輪のロマンに囚われたままだった。


-----列車が動き始める。
憧れの車輪が回り始めたのだ。






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