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まちに待った

人は独りで死ぬ。

ありふれた言葉で頭のどこかで分かっていて受け入れたくない事実だ。人格も思考も共有する事は出来ず個々人で持ちうるものだ。言葉にしても記憶までは共有できない。夢で見たから思いだしたとか、街中で感じた香りや音で連想されたとか、瞬間瞬間に人は体感をし嘆き振り返り、現実と向き合う。思い出したくない記憶が蘇り胸が苦しくなり、二度と戻らない過去を慈しむ。前しか知らない人生など少ない。

8月も半ばを過ぎた。待ちに待ったイベントは儚く過ぎ去り、想像してた以上に楽しかったり想像してた以上に苦しかったりもした。他人と関わればこそ自分自身の人間関係を築く事の苦手さに気付く。何事にも痛みが伴い、楽しさの裏に誰かを気にして思いっきり前を向けない自分がいる。

集団の中でこそ孤独があるのだ。だから集団から離れたくなる時がある。それなのに学ばない酒飲みのように1週間もたてば愛おしくなる。どんな麻薬よりも人間関係が中毒性があるように思う。痛みが伴い苦しみが伴い、それなのに何度も何度もその場所にいる。非日常が好きなのだ。自分にとって人と関わる事は非日常なのだ。関わる瞬間はまるで長いMVのような。

そういえば他県出身の方から名古屋の人はよく街中で歌っているといわれた。世界がMVに見える。そんな気がするのは自分だけではないと思う。

ところで小学生のころ、私は「待ちに待った」を「街に待った」だと認識していた。自分だけではなく誰もが望み待っていたイベントだと思っていた。街全体が幸福に溢れる魔法の言葉だと、そう思っていた。

いつしか「待ちに待った」が「街に待った」そんな日に変わればいいのに。

遠い昔の過ぎ去った楽しい日々を夢に見て、梅酒を1リットル飲んだ。苦虫を噛み潰したような何かが体内に広がった。

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