煙突その他

カレーが食べたいかどうかでその日の体調の良し悪しがわかるとはよく言ったもんだが(自分のなかで)、最近は食べたいと思える日が皆無なんだよな。どうしたもんか。
今日も昼起きて映画を一本見て数十分間本を読んでから散歩した。どんだけ散歩すんだ。笑

清掃工場の煙突が今日はやけにキレイだったという、また何の面白味もない報告だけしておきます。

煙突。大小ビル群の合間を抜け空に向かい屹立する姿が、なんとも立派な象徴的存在であることを誇っているかのよう。しかし何の変哲もない、都市部にはありふれた単なるゴミ焼却場であるという事実。その事実性からか、人々はその存在を軽視しがちだ。なかなかにバエると思うのだが、バエスポットして有名ブロガーが取り沙汰しない限りは無視され続けるのだろうかと、少しばかり悲観。象徴的存在とは言ってみたものの、多くの人々の念や記憶が寄せられない限りは“象徴”としては失格なのだろうか。いやその煙突の周囲に暮らす人々にとっては昔からの…などとキリがない妄想を反復しつつ、本日も無為に歩いた。
スカイツリーや東京タワーの美しさとはまた異なり、白く味気のない煙突が誰彼の興味を引くこともなくただデカデカとそびえ立っているという驚き。特に上から二枚目は、写真自体うまく撮れたものではないが、遠く建物の隙間に広がる夕焼け空が、都心ビル群の“閉ざされた”空間においては不意に垣間見るのことできる希少な空間として開けていて、その開放感が煙突の荘厳さを背景として盛り立てている。(写真が、ではなくその時感じたこと)

近寄ると荘厳さは失せ、ただ剥き出しのデカさだけが、無味乾燥なコンクリートの巨大な筒状の塊としてただあるだけだ。
“象徴”とはそういうものなんだろう。実質に肉迫するほどその妖しさ、不可思議さ、それらをひっくるめ光を放っていた魅力なるものが消失し単なる物質もしくは身体が残るのみだ。抱いていたイメージは雲散霧消し、“思い違い”の嫌悪感に駆られ、自身の無軌道さを振り返っては絶望する。そういったことは当然人間関係にも当てはまる。ここでしょうもない人間カンケーの実例を羅列したところで何のメリットもないだろう。
イメージを生き、イメージに失望し、再度別のイメージを構築し生き直し、、堂々巡りの人生だ。


川沿いも完全に初夏の新緑


2023/05/02
明日はカレーが食べたい自分であって欲しい笑



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