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激エモ日記〜風景と肉感〜


連休だ、連休の雰囲気がとにかくいいんだ、などと浮かれてはいたが当の自分自身は修士論文が1行も書けないのではないかというモヤついた恐怖の連続と、さらには自身の雇用という大爆弾、就職活動というシブトいナパームの塊を抱えておりその双方向から来る重圧に押し潰されそうになっている、いや、双方向が持つ磁力・重力に引き裂かれそうになっている。後者のニュアンスが現在の自分にはしっくりくる。多方向からの重力、いわば多ベクトルにわたる価値観の強度に引っ張られ、挙句自身の自我の置き所を喪失するのではないかという漠とした恐怖が後からジワジワと押し寄せる、そんな日々を送っている。いや、かなり深刻そうな弱音をブチかましてしまったが、実際そんなことは無く、ただこの瞬間瞬間に耽溺している。いや、それでは快楽主義的な無鉄砲な生活破綻者の物言いに聞こえてしまう。ではこれではどうか。「後先考えすぎることもなく、その都度ただ目の前のやるべきことを淡々とこなしている」。いや流石に都合が良すぎる笑


さて、今日はというか昨日は、家で少し作業した後軽く散歩した。それだけ。
昼間起きたら雨が降っていた。重苦しい頭痛を感じたのでイブクイックを飲んだ。某ファッキンウイルス罹患に備えあらかじめストックしておいて良かった。イブは効く。実際コロナに罹った記憶はないが。

腹が減り夕方に吉野家でネギ玉牛丼を食った。ネギ付きにしたのを後悔した。曇天の日に真緑のネギに覆い尽くされたモノなど食いたくない、何故かそんな風に感じた。
最寄りから五反田まで「だりぃな」などとため息を吐きながら歩いた。だりぃ、なら家から出ずに寝てればいいだろと思われるだろうが、だりぃ、日ほどそういう訳にはいかない。とにかく外の空気が吸いたくなる。家の同じ壁ばかり見ているのはとてもじゃないが気が狂いそうになる。本を読んだり映画を見たりすればいいじゃないかと自分にも毎度言い聞かせてはいるが、「だりぃ」日は、大して何もできない。そんな時、とにかく外の景色に己を紛らわせることが最良の救済となり得る。

五反田駅付近の線路沿いを歩いていた時、不意に見上げた空が切ないピンク色へと変わっていて泣きそうになってしまった。空を見て云々というのは実に恥ずかしい。「エモ」の典型例だからだ。「消費し尽くされたエモ」「制度化されたエモ」「挙句商品化されたエモ」。そんな「エモ」の濁流がネットの海を流れる時代、誰もが「自身が前衛、先鋭と感じるエモ」を露出したがる。誰もが露出したものは妖しさを失う。そしてまた誰かが別の部位を露出し…としょうもないエンドレス・エモ。くそエモい。
しかし、別に空を眺めてエモくなるのは誰にでも、これからも、人間が人間として続く限りは有り得ることだろう。要はそのキリトリ方、ミセつけ方に問題があるのであって、そこで人は妬んだり蔑んだりを繰り返してるっちゅー訳だ。つまり、そんなしょうもない闘争を繰り広げる程度には、俺らみんなとっくにネットの中に馴致されたアホのサイバー「人間」になっちまったってことだよ。
空の話に戻ろう。笑

これは五反田付近線路沿いを東へ向かっている時の空だ。ついさっきまでの重苦しい曇天が晴れ渡り、雲間に覗く空というか雲自体が西日に照らされることで仄かなピンク色に変貌している。ほんとにキレイで、ああ、歩いてきて良かった、、などという自惚れた幸福を感じていた。雨上がりのモイストな空気感も相まって、これは淫靡だと叫びたくなるような色気すらもその時感じてしまった。雨上がりの夕方は、時たま異様な妖しさを見せつけてくる。

上はその東の空を仄かなピンクに染め上げる「光源」である西の空だ。もちろんキレイと言えばキレイ、なのだが、個人的には少し恐ろしい印象を抱いてしまった。仏教画に描かれているような「地獄」のモチーフを想起させるからだ。地獄の業火のような烈しさの襲来、例えば己や親しい人物の死、病、災害、戦争、不景気による破滅…等々の苦しみに震え慄きながらも生きていることを気付かされたような気がして、ゾッとした。地獄のような「烈しさ」は日々感じるようなモノではないが、常に我々の「背後」に存在している。しかしその「烈しさ」は「苦しみ」を生むだけではなく、一瞬の幸福や情熱といったプラスの躍動感さえも創出する。カオスだのディオニュソスだの死の欲動だのと言ったギリシャ神話やそれに準じた思想史を引用したい訳ではない。しかしその「烈しさ」がプラスの意味でふと頭をもたげてきた瞬間というのが、今日の「東の空」を見た時のような幻惑的な一瞬でもあったと言えるのだろうか、、などと、頭お花畑なカイシャクをこねくり回したくもなってしまった。赦して。



帰宅してゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』を久しぶりに見直した。相変わらずツマんねー映画だった。しかし10代の頃よりその映画そのものに入り浸れているような感覚を得た。
土地開発と金融資本化の進むパリ郊外の団地で売春を行う人妻の一人語り、というかゴダール自身の独白を人妻やその周辺人物に語らせ、物語の外側や真の客観的現実に迫るにはどうすべきかといったような問題意識を提示したといえるような作品だ。非常にツマらない。しかしこの映画に感じた唯一の見応えとは、その何というべきか、観客の無意識を一瞬めくり上げるような「外部」というか「リアル」の見せ方がカッコイイところだ。そのいわゆる「現実的なモノ」を表徴するようなショットが、いわば「人間の、人間的に見える語り」のシーンの最中に突然差し込まれている。その「現実的なモノ」とは、パリ郊外の開発風景、工事の騒音、無機質に立ち並ぶ団地群、、等のショット、そして音(ほとんどが騒音雑音)である。簡単に言えば、まあ「無機質さ」、いわゆる「非人間性」が突如として映画の中に、そして観客のアタマの中に投下されるというような感覚だろうか。ああ、難しい。何を見ていたんだろうか、なんでここまで「考え」なくてはならないんだろうか。でもそれがゴダールを見る醍醐味でもある。映画を見ながら考える、というようなことはしなくてもいいと思ってるし、俺には無理だ。しかし、ただ映画の中に入り浸り、心象風景や思考なるものを捻じ曲げられ、いわば「身体が改変され」、後になってああでもないこうでもないと新しいヒラメキと共に言語で映画を考える愉しさを与えてくれるのが素晴らしい映画だと思っているから、それで十分なんだ。(でも、明日は久々にインディージョーンズとか見たい気分ですわ笑)

なんか少し長くなってしまったな。今日も今日とて、よく、わからない。



2023/05/01 
五月なんだな。


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