恋とはどんなものかしら

 最近、高校の友人2人と話す機会があった。
 しばらく会っていなかったが、話し始めると高校時代に戻ったかのように話が弾んだ。あの時は飲めなかったお酒も交えて、充実した時間だったと思う。
 そのとき少し盛り上がったのは「恋愛観」の話だった。「恋バナ」というような可愛らしいものではなかったので、「恋愛観」という言葉が一番しっくりくる。

 はっきり言って、私は「恋バナ」が苦手だ。嫌いと言っても差し支えないと思う。理由は分からないし、子供の頃はそれなりに平気だったはずだが、最近はてんでダメだ。恋バナを聞くと胃がムカムカするので、生理的に無理なのだろう。全く理由は分からないが。政治の話を忌み嫌う人がいるように、私は恋バナが苦手なのだ。それだったら、今後の日本政治の展望の話をしている方がよっぽど楽しい。
 そんな私がなぜ「恋愛観」の話をするようになったのか、理由は全く簡単だ。久しぶりに会った友人に聞かれる質問ランキングでは上位に入っているであろう、「彼氏できた?」答えはもちろんNOだが、そこから「人を好きになるとは何か」という哲学的な問いが始まった。
 友人のうち1人は「好きになられたら好きになっちゃう」とのことだ。全く理解不能である。もう1人は「恋人ができて異性の友人と遊べなくなるのが嫌だ」とのことだ。私は圧倒的に後者の方に共感する。世間的に見ると、後者の意見は恋人から邪険にされるのだろうが。
 その友人がどうかは知らないが、私は人間を男と女に分けて見ないのだと思う。自分の性のことも真剣になったことはない。男女の違いは生物学上のものだ。私は自分が女性らしいとも男性らしいとも思ったことはないし、女性に生まれて良かったと思ったこともあるし男性に生まれたかったと思ったこともある。私にとって性別とはその程度の違いなのだ。こういうことをいうと、どこからか怒られそうな気もするが。

 私は、恋愛は人生にとって必要ないしなければ寂しいものだと思ったことはない。私だって人を愛したことくらいある。それは家族であり、友人である。恋愛対象として人を見たことがないだけで、愛くらいは知っている。冷たい人間だと思わないでほしい。恋愛は古今東西至上のものとして捉えられがちだが、私にとってそれは精神的な営みの一つに過ぎない。それは名誉を得たいと思うこと、知識を得たいと思うことと全く同じだ。恋をすることは素晴らしいことだが、恋をしないことがおかしなことではない。本が好きな人と苦手な人がいるように、恋愛が好きな人と苦手な人もいる。それだけのことだ。
 もしこの文章を読んでいる中に、私と同じような悩みを抱えている人がいたら、つまり友人の恋バナについていけず、恋をしたことのないことに不安を覚えているひとがいたなら、伝えたい。あなたはおかしくないと。恋をしたことが無いのはあなたが子供だからではない。恋愛がピンとこないのはあなたが寂しい人間だからではない。それは、あなたが恋愛に興味がない、それだけのことだ。そして、いつかあなたは人を恋愛対象として見るかもしれないし、一生その時は来ないかもしれない。どちらでもいい。たかが恋愛なのだから、それはきっと、人の価値を絶対的に決定するものではない。
 私自身は、恋バナは苦手だが、恋愛自体を嫌っているわけではない。もし自分が恋をしたなら、いったいどんな人を好きになるのか興味がある。

 余談だが、私は法学部で、かつ恋について何か文章を書いたこともたいしてないから、「こい」とPCで打つと、一番目の変換に「故意」が、二番目の変換に「鯉」が出てくる。「鯉」は、最近やった占有離脱物横領の関連判例でよく使ったからだ。私は自分のPCの変換が「故意」になっていることを、自分らしいと好ましく思っている。

雨の匂いを感じる季節に あづさ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?