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新春の蜃気楼1 2023.1.19

 2022年を夢中で過ごして気が付いたら、2023年1月の下旬になろうとして居ます。年寄りには、年の濁流が回避して居る様です。此方から積極的に動か無いと取り残される様です。
 蜃気楼を見て居ると思って、読んで下さい。
 紀元前260年頃出雲地方にある東鯷国から伊奘諾尊と伊奘冉尊が鉄を求めて北九州に攻め上って来た。迎え討ったのは邪馬台国のオモダルである。
 伊奘冉尊が余りに美しかったので、伊奘冉尊を迎え入れてしまった。金剛山や香春岳の鉄と銅の鉱山開発を手伝った。
 遅れてやって来た伊奘諾尊は、邪馬台国には入れず、第2峰、金返川から英彦山方面へ一目散に逃げた。香春岳第2峰に有った鳴き沢目の神を宮司の許斐(コノミ)家が金山で今も守って居る。
 紀元前250年頃やはり又、東鯷国からスサノウノミコトが鉄を求めて北九州に攻め上って来た。邪馬台国は滅びてしまった。
 満州から朝鮮半島に南下して来た天照大神が此をチャンスと見て、一気に北九州に攻め込んだ。スサノウノミコトは北方民族の仕来りに従って処分された。記紀には置き戸と記載された。しかし、六人の子供達は天照大神の子として生き延びて居る。天照大神の三人娘は、一人のタギツ姫が天御中主の前のセオリツ媛として英彦山に祀られた。現在は宇佐神宮に大媛として隼人族を攻めた方法を伝授した法蓮上人により中央に祀られて居る。
 中国では春秋戦国時代がユダヤ人秦の始皇帝により統一された。官僚制が敷かれた。用が無くなった武将の子は伏犧の子孫の徐福が連れて日本に渡った。
女媧、伏犧、炎帝神農氏、黄帝は倭族である。狗奴国の菊池氏は5帝に支えて居る。
 秦が敗れ、子孫が日本に来た。此が、忍穂耳尊と邇邇芸尊である。戦局を有利にする目的で邇邇芸は邪馬台国が有る種子島に渡って交渉したが、海神の姫と結婚出来ず、ヤマツミの姫と結婚した。スサノウノミコトもヤマツミの娘と結婚して居るので親戚同盟が出来上がった。
 北九州にあった邪馬台国が潰された事を知った狗奴国の神武天皇が立ち上がった。1回目で兄を失った。日を背に受ける嘗てスサノウノミコトがとった戦法で邇邇芸尊一派をスサノウノミコトの国の東鯷国の一部の四国に排除した。その後300~400年代に長野県諏訪地方に移動して居る。
 此の時、邇邇芸に近畿地方の名古屋に排除された天照大神は、神武天皇側に味方をした。
 神武天皇の融和策により、事代主の娘を妻とした。ユダヤ人の母親から産まれた子はユダヤ人である。
 日本書紀には、饒速日尊から邇邇芸尊へは禅譲と記載されて居る。
又、高天原(のアマテラス)から来た3回目の使者に大国主命命と事代主が国譲りと記載されて居る。関東に有ったヒダカミ王国から秦王国への国譲りを記載した物だろう。
 東鯷国には、龍神ー背黒海蛇をトーテムとする山岳宗教のユダヤ族のクナト(真名である)がインドから樺太経由で入り4000年前から住んで居る。
 此の後、日本書紀の欠史八代が続いて居る。開化天皇は紀元後50年頃の天皇だろう。天火槍(アメノヒボコ)と都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)は同一人物の可能性が有る。垂仁天皇の最初の妻(ユダヤ族の遠賀川物部氏の開化天皇系統)は崇神天皇(辰韓ー東鯷国の日本人昔氏設立)系の上毛野君に家を燃やされて処分されて居る。此の時外に出された王子が誉津別尊ー日本武尊(紀元248年頃没、仲哀天皇の祖父。長男の二代目日本武尊は266年没。在位60年の成務天皇の母は壱与である。)である。
 東鯷国から攻め上って来た神功皇后は、武内宿禰と組み、仲哀天皇や成務天皇を滅ぼした。大王が崩御して家来が設立した新羅に、神功皇后武内宿禰軍が364年に攻め入った。此の時武内宿禰の子供の誉田尊を妊娠した。
 368年誉田尊は4歳にして崩御し、上毛野君の同年齢の子が誉田別尊として入れ替わった。神功皇后も崩御した様である。此の件は公にはされて居ない。倭の五帝が天皇系列と別系統の様に記載されては居るが、此の時は、倭国本朝は成立して居ない。筑紫に有ったのは、兄ちゃん百済のビル百済国である。
 菟道幼郎子天皇の在位は405〜408年である。次が仁徳天皇ー大鷦鷯である。
仁徳天皇の皇后髪長姫は、邪馬台国出身である。
 此処では、此処迄にして置く。
 倭の五王は次の通りである。
 讃ー履中天皇、珍ー反正天皇、済ー允恭天皇、興ー安康天皇、武ー雄略天皇(埼玉県サキタマ古墳と福岡県岩戸山古墳の記名鉄剣)
在位年は、中国の歴史書に沿って変える必要がある。
 其々勇ましい肩書きが付いて居る。此は半島戦の結果である。
 しかし、済と興は半島戦で敗北し、武が予め称号を得て闘ったが、敗北して居る。その結果、日本人のDNAに半島人のDNAが見られる状態になって居る。
雄略の後子の清寧天皇が即位した。その後、飯豊青天皇(女帝)が即位して居る。倭の五王系図に讃の子に嘉と記載されて居る、日本書紀で云う菟道稚郎子ー本当は市辺押磐皇子(雄略天皇に滅ぼされた)の子弟顕宗天皇ー哲、兄仁賢天皇ー満ー磐井の乱のワイが見つかって即位して居る。仁賢天皇の子が武烈天皇ー牛慈である。
磐井の乱を平定したのは、物部アラカイである。此の功績により倭国本朝を設立した。天武天皇は此の系統である。聖徳太子は天武天皇の祖父であり、アメノタリシヒコである。589年に倭国東朝の軍隊四万人と倭国本朝軍を引き連れ中国陳と戦って4年後に帰還した。
 此の為、皇帝の遺言の中に、この世で注意する物三つの中に、倭人と有る。
アメノタリシヒコも景教ネストリウス派キリスト教徒の蘇我氏系の推古天皇に殺害されて居る。薩摩隼人も滅ぼして居る。
 494年に狗奴国の継体天皇が即位した。皇后には邪馬台国の血が流れて居る。
 継体天皇は517年倭年号継体を24年の詔勅により設定(~522年)した。
 しかし、又、再び522年半島戦で敗北して居る。

 未だ重要な事を記載して居ませんが、長くなりましたので、この辺で筆を置きます。
 皆様にとって本年がより良い年であります様に。
 


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